因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

玉響の会第11回朗読公演~日本文学を読む~「伴一彦の文章に声と心をつけてみる。」

2022-03-20 | 舞台
*阿佐谷ワークショップ 19、20日上演
 俳優の佐藤昇が主宰する玉響(たまゆら)の会朗読公演は、前回(1)に続いて伴一彦の作品に取り組んだ。「うちの子にかぎって・・・」や「パパはニュースキャスター」などのヒットドラマの脚本を手がけた作者初の推理小説『人生脚本』(光文社)である。事前に原作を一読し、登場人物の人となり、互いの関係やそれぞれの背景、物語の流れなどをひと通り頭に入れて観劇に臨んだ。

 田中智子、玉木文子、神由紀子、佐藤が読み継ぐ形式で進行するが、小説まるごと1冊すべて読まれるのではない。開演前、主宰の佐藤昇から挨拶があった通り「抜粋」である。照明や照明効果は一切入らない。上演は休憩を挟んで2時間30分を超え、朗読公演としては長時間の公演となった。ほぼ満席の盛況である。

 シナリオと小説の性質の違いについて考えた。今回の作品前半に「寝落ち」、「ハグ」という言葉が記されている。これらがシナリオにおける「ト書き」であれば、それほど違和感はないかもしれない。映像になった場面を想像すれば、人物の動作によって一目でわかるものばかりである。しかし小説の地の文で読んだとき、微妙な居心地の悪さが生じたのである。俳優の朗読で聴くと違和感はさらに募る。「眠り込んでしまった」、「抱き寄せた」ではだめなのだろうか。

 俳優陣は椅子から立ち上がったり、からだの向きを変えたりなど、観客に場面が変ったこと(章が進んだ)を示す工夫を加えている。一人の人物であってもトータルで4人の俳優の声で読み継がれるわけであるが、意外と混乱しなかったのは、俳優が自分のパートはもちろんのこと、ぜんたいの構成を考慮した朗読を行ったためだろう。ただやはり「〇〇とは誰だったか?」とわからなくなったり、小説では非常に重要と思われる幼い息子を事故で亡くしたときの夫のひと言がなかったり(と記憶するが)、原作の記憶を呼び起こしながらの観劇であったことは確かである。

 これまでたくさんのドラマのシナリオを手掛けてきた伴であれば、抜粋ではなく、本作をひとつの朗読劇として戯曲化、舞台化した作品が成立可能ではないだろうか。しかし公演タイトルには「~日本文学を読む~『伴一彦のの文章に声と心をつけてみる。』とあり、あくまでも「文学を朗読する」のが玉響の会の目的であり、主宰の佐藤が大切にしていることなのだろう。

 山田太一の「ふぞろいの林檎たち」第一部の最終回のある場面を思い出す。あとでシナリオを読んでみると、「そうか、この人はこう言いたかったんだ」と合点の行くト書きのひと言があった。人物(作者)の思いをくみ取り、見事に映像化されて視聴者に伝わった一瞬のカットは、今でも忘れられない。また向田邦子の「阿修羅のごとく」パートⅡ第1回「花いくさ」のラストシーンに「恒太郎の目に灯がともりはじめる」というト書きがある。佐分利信演じる武骨で無口な老父・恒太郎の心の揺らぎ、このあとの展開を期待させるものであり、俳優の声でぜひ聴いてみたい。

 自分は前述のテレビドラマを視聴したことがないため、伴一彦のシナリオから生み出される映像がどのようなものか、俳優の発する台詞のリズムやテンポ、会話の雰囲気などを実感できないのだが、ドラマのなかには伴一彦ならではのト書きの渾身の1行がきっとあり、それに俳優が「声と心をつけてみる」ところを想像してみるのである。
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