因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

劇団、本谷有希子第16回公演『遭難、』 

2012-10-11 | 舞台

*本谷有希子作・演出 公式サイトはこちら 東京芸術劇場シアターイースト 23日まで
 2006年に青山円形劇場で初演され、鶴屋南北賞を受賞した作品が再演となった。このときの上演をみた複数の知り合いは、表現のことばはちがうものの、大変おもしろかったと感想を述べていた。  
 自分は上演をみずに2007年の岸田戯曲賞の選評を読み、それから単行本になった戯曲を読んで、2007年夏にテアトル・エコー版の舞台をみるという順番であった。岸田賞の選評において、劇作家・演出家の永井愛が本作について非常に鋭い指摘の弾をガンガンと打っており(そんな感じです)、実際に舞台をみたという選考委員が「舞台はおもしろかったけれど・・・」と気圧されている印象であった。舞台設定やストーリーの流れには整合性を欠いたり、ふじゅうぶんなところ、矛盾などの隙が多く見受けられるが、ともかくも毒を吐き散らす主人公の女教師里美の問答無用の迫力と、演じた松永玲子の達者ぶりに呑まれてしまったというのが、実際の舞台を体験した人の印象ではなかろうか。

 稽古中に病気降板した黒沢あすかに代わって、菅原永二が主人公の里見を演じるのがよくも悪くも本作再演の大きなみどころになった。

 新しくされた公演チラシには里見役の扮装をした菅原永二がポーズをとってこちらをみつめている。まったく事情を知らない人がみたら、これが男性にみえないかもしれないと思うほど、なかなかきれいな仕上がりだ。実際の舞台においても菅原は声はそのままの地声であり、ことさらに女性を強調する演技をしていないせいもあり、予備知識なしで本作を見た場合、多少声の低い女優が演じていると思う人もあるだろう。それくらい菅原の演技は自然であり、「敢えて男が女を演じる」ことに意図や効果を求めるものは感じられない。

 永井愛が指摘するさまざまな矛盾点はあるにしても、自分は本作の戯曲をおもしろく読めた。しかし戯曲読みで得た感覚を実際の舞台で同じように、場面によってはより強く求めようとして、ほとんどが肩すかしに終わったのはなぜだろうか。
 たとえば冒頭、息子が自殺を図り意識不明の重体にある母親が、自殺に追い込んだ(と母親は信じている)担任の女性教師に「このなかにうんこしなさいよ」と花瓶を押しつける。逆上する母親と混乱して言うとおりにしようとする教師、とめようとする他の教師たちのやりとりが、戯曲では実に微細に描かれていて大変おもしろいのだが、舞台では複数の人物の台詞が重なってはっきり聞き取れなかったのである。

 そこだけでなく、戯曲を読んでおもしろく思い、これが舞台で行われる様相を楽しみにしていたにも関わらず、じっさい目の当たりにするとそれほどでもなかった箇所が意外に多くあり、次第に困惑が色濃く心を支配することに。残念だ。どうしてだろう。

 中学生が自殺未遂を起こし、教師の対応に不信感をもつ父兄が職員室に連日押しかけるという設定は、子どもの自殺問題が、家庭と学校、教育委員会を巻き込んだ社会的な大問題となっている現在、じゅうぶんにありうることであり、まさにいまの生々しい世相を反映したものにもなりうる。しかし本作では自殺を図った原因が特定されていないことや、筆者が描きたかったのは、自分の性格を「過去のトラウマのせいだ」と主張するねじくれた主人公であり、いわゆる社会問題提起の目的を持たない作品である。したがって作品の同時代性、教育において問題山積の現状とのつながりのあるなしは、本作をみる上であまり必要であるとは思えない。

 エコー版をみたとき、自分は予想していたよりも静かで笑いの少ない客席に困惑した。そして再演の客席もそれに劣らず、不気味に静まっていたのはなぜだろう。
 芝居のみかた、楽しみかたはいろいろあるが、残念なのは実際の上演に失望が続いたために、戯曲を読むだけでその世界に閉じこもってしまうことである。『遭難、』がそのての作品であるのか、思いきって書くと、そもそもそこまでの思い入れをもって読んだりみたりするに足りるものであるのか、初演から6年たってもいまだに謎が解けないのである。

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