因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

新国立劇場『リチャードⅢ世』

2012-10-15 | 舞台

*ウィリアム・シェイクスピア作 小田島雄志翻訳 鵜山仁演出 公式サイトはこちら 新国立劇場中劇場 21日まで
 席番は10列にして最前列!客席へ少し張り出した舞台美術のゆえである。先日のマンスリープロジェクトでは、終演してまもないステージに翻訳の小田島氏、演出の鵜山氏が登壇して本作の魅力を語った。赤土が敷きつめられ、そのところどころに月面のクレーターのような穴がある無機的な舞台に今日は生身の俳優が立ち、血みどろの権力抗争をくりひろげるさまをみる。

 クラシック音楽を多様した試みにはいささか疑問がわく。シューベルトからメンデルスゾーン、モーツァルト、シューマン、終幕からカーテンコールではアイルランド民謡と、よく知られた曲が次々に流れるのだが、場面との整合性、ぜんたいのつながり、なぜこの曲を用いたのか、果たして効果があるのか等々、しっくりこない。冒頭、岡本健一演じるグロスター公(のちのリチャード三世)が醜いからだを左右に揺らしながら登場し、自身の野望を語る場面でシューベルトのピアノ曲(即興曲作品90 D.899より第一楽章)が流れるところでは、この曲がこれから始まる物語の基調となるかと予感して思わず身を乗り出したのだが、つぎつぎと違う曲が流れてくることに軽い失望を禁じ得なかった。音楽が支配するような作品ではないが、オリジナルではなく既成の曲を使う場合、「あの場面であの曲が流れた」ということはあんがい観客の記憶に残り、俳優のすがたや台詞に負けないくらい、その場面の印象を決定づける要素になりうるのである。

 ところどころ背面に映像を映し出す趣向にも疑問が残る。後方座席からみればぜんたいとのバランスがつかめただろうか。野暮を承知でいえば、生身の俳優が登場するステージに映像を使うのはもったいないと思ってしまうのだ。わざわざ用いるからには、よくよく効果を考えた上のことではあろうが、結果的に散漫な、はっきり言えば興ざめに近い印象であった。
 リチャードによって死に追いやられた人々がつぎつぎに呪詛のことばを投げかける場面で、バッキンガム公がワイヤーに吊られて出てきたとき、仕掛けに驚くよりも「何もここでそこまで」と引く気持ちのほうが強い。中央エリアが盆になっており、リチャードとリッチモンドが自分の陣営で眠りについているところを回しながら、亡霊の呪いと祝福が交互に見せられる場面がとてもおもしろかっただけに残念だ。

 しかし最終的に手ごたえをもって劇場をあとにしたのは、出演俳優ぜんいんが心身を尽くして熱演していたことと、野望を抱き、劣等感をばねにして生き抜いた主人公に対して、嫌悪や違和感を超越して、称賛の気持ちを抱けたためであろう。背中にこぶを負い、からだを大きくゆすりながら悪態の限りを尽くすリチャードが、カーテンコールでは別人のように清々しい表情でステージの中央に立つ。俳優その人から演じた役柄が抜け出た瞬間をみる思いがした。悪党ながら天晴れ。シェイクスピアの悲劇や歴史劇は陰惨な場面が執拗に続いたり、後味の悪いものが少なくない。しかしこの爽快感が味わいたくて、何度も足を運んでしまうのである。

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