思想家不毛の時代にあって、私が身近に置いている本は、葦津珍彦の著書である。在野にあって葦津は「洋風教育の尊重と、土着大衆の蔑視」(「神国の民の心」)という風潮に異を唱えた。白人的な思考や心情を絶対視することは、日本人の幸福には結ぶつかないのであり、あくまでも語学をひけらかすインテリの自己満足なのである。葦津も指摘しているように、彼岸やお盆の墓参り、初詣に出かける人々は、土着的な思考や心情に根ざしている。そうしたインテリに指導されているわけではない。ネット上で起きていることも、まったく同じではなかろか。インテリの妄想や観念論に対して、名も無き土着民が言論戦を挑んでいるからだ。それは、偉大な言論人であった葦津の志を継ぐことである。遺言ともなった長男泰國にあてた手紙には、その志が何であっかたが書き記されている。「私の83年の生涯、西郷先生に従いて、特に戦後47年、自らの名を上げるのをさけ、私の利を下げるのを嫌はず、死地に立つのを畏れなかった」(「葦津珍彦臨終日誌」)と述懐しながら、「この間、皇威を保つため、GHQ、政府、世論と交渉し、文筆もとった。いずれも世俗的通常的に見れば、さびしく不利だったが、心中は、いつも歩一歩の前進に感激し、勇気を以て生きてきた」(同)。「さびしく不利だった」としても、信念を曲げなかった葦津こそが、真の意味での憂国の志士なのである。
↑
会津っぽに応援のクリックをお願いします