草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

若者に負担強いる民主党

2007年06月19日 | Weblog
年金騒動で忘れられているのは、負担と給付との関係である。驚くなかれ民主党は、今後給付水準を引き上げると公約している。国民だましのいつもの手である。
労働年齢階層が減ってきているのに、どこに金があるというのだろう。若者に負担させるということになれば、世代間の不公平感が高まることは必至だ。参議院選挙の公約にするつもりらしいから良い度胸である。若者が民主党に票を入れるのは、結果的に自分たちの首をしめることなのである。
若者がマスゴミの安倍批判の合唱に加わるなどというのは、愚の骨頂なのだ。負担する者が少なくなって、給付者が増えてくれば、年金制度の維持そのものが難しくなってくるのである。だからこそ、改革を進めるしかないのだ。民主党は守旧派であり、かつての社会党とまったく同じ体質なのだと思うと、ガッカリしてしまう。二大政党が日本に根づくのは、まだまだ先になりそうだ。若者よ騙されることなかれだ。
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三島由紀夫と林房雄

2007年06月17日 | Weblog
まだ10代であった頃の本を引っ張り出して読んでしまった。林房雄と三島由紀夫の『対話・日本人論』である。昭和41年に初版が発行され、僕が手にしたのは昭和45年発行で、すでに8刷目であった。三島は何かに苛立っているようで、それを婉曲に林がたしなめていた。三島が問題にしていたのは、日本のアメリカ化であったようで、丸山真男を批判しているのも、西洋の考え方をあてはめて日本の政治を分析したからなのである。恋闕という言葉が象徴するように、忍ぶ恋に身を捧げるというパトスがほとばしり出ていた。理性によって押さえられない情念が向かう先は、自ずと決まっていたのではなかろうか。今の日本を見渡してみても、歴史とか伝統にこだわるのは、一握りの保守派になってしまった。小沢を毛嫌いしたくなるのは、三島は主張するような、日本への一途さが微塵もみられず、何でもありだからだ。僕は自民党の改革を受け入れようと思う。それが三島の言う日本を守ることになると信じるからだ。しかし、そのほかの政治勢力は、それがみあたらない。ささやかなことかも知れないが、特攻隊の遺書に涙した小泉や、日本という国家を国家たらしめんとする安倍を、心底応援したくなってしまうのである。自民党もアメリカによって骨抜きにされてしまっている。それでも、最後の一線だけはかろうじて守っているのだ。三島の精神を受け継ぐことは、現実的な対応によって、守るべき日本を死守することではなかろうか。本棚に眠っていた本が、僕にそう語りかけてくれたのだった。
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民主党は社会主義

2007年06月17日 | Weblog
民主党の政策を読んでがっかりしたね。あれはいったいなんだ。農家に所得保障をします。高校まで教育費は無償にします。教員の身分は守ります。挙げ句の果てに、高速道路を無料にするとも言っているんではなかったかな。これではまるっきり自民党以下だ。今までと同じで、社会主義の政党だよ。参議院の全国区の候補も、連合の組合候補が八人もいるし、しかもだよ、七〇歳を過ぎた年寄りばっかりだよ。そんな者たちに日本の政治を渡すと大変なことになってしまう。所詮は組合の政党なのに、小さな政府を口にすることが間違っている。小沢は主義主張はどうでもいいから、鈴木宗男ともくむし、スターリン主義党とも仲良くなる。自民党の権力の中枢にいて、首相候補を呼びつけた男が、まともな考えをもっているわけがない。過去の亡霊を英雄とはやしたてるほど国民が愚かだとは思わないが、日本の政治は過去を清算しないと前には進めないと思うよ。
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猪瀬、桝添が国を救う

2007年06月16日 | Weblog
 やっぱりね。与党側に人材がいるよね。猪瀬は、信州大学の全共闘議長だったというけれど、桝添も新左翼だったといわれるけれども、この国を救うのは、スターリニストに食いあらされた民主党ではないんだよね。社会保険庁を丸ごと残そうという民主党が、改革の党のわけはないし、小さな政府を目指すならば、自民党しかないんだから、そこが不幸と言えば不幸なんだよね。日本という国家が漂流したままでいいわけがないんだから、自民党がいかにオンボロでも、まずはそこを再建して、それから建設的な野党を育てるしかないんだよ。小沢をほめちぎるマスゴミは結局は、時計の針を逆に回しているだけだよ。こうなると悲劇を通り越して喜劇だけどね。
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三島由紀夫の遺言

2007年06月06日 | Weblog
三島由紀夫が生きていたらば、安倍を応援しただろう。この国を変えるには、そのおおもとを正すべきであるのを知っていたからだ。しかし、その場合でも、国家という枠組みを尊重したはずであり、小沢の如く、国連軍であるならば、何でも許されるという議論には与しなかっただろう。主権を失えば、日本人はそれこそ、傭兵となってしまうからだ。いかにアメリカの従属下にあっても、最後の一線は守らなくてはならないのである。小沢は旧社会党と一緒になっても、政権だけを狙う権力の亡者である。そんな手合いにだまされるほど国民は愚かではないと思う。三島の生前の言葉は、日増しに重さを増している。守るべき日本の伝統とは何か。それを衒うことなくストレートに主張したからだ。政治学者の橋川文三は三島の政治論をこっぴどく批判した。しかし、それで罰があたったのか、橋川は後悔の念にさいなまれていたという。日本人であることを失うことなく、それでいて現実を直視する。そのスタンスこそ、三島が望んだことなのである。物理的なクーデターを行うつもりならば、三島はもっと違った方法をとったであろう。そうでなくて、精神的なクーデターを狙ったからこそ、あのような結末を迎えたのだ。安倍は捨て身である。どうしてそれを改革派のわれわれが見捨てておけよう。三島の志を継げるかどうかが問われているのだ。改革とはまさしく、三島の遺志を継ぐことなのである。三島はドンキホーテではなかった。死を以て何が大事かを示したかったのであり、後に続くを信じたのではなかろうか。
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