岩波書店もこれからまともになるのだろうか。西田幾多郎、田辺元らを中心した、かつて京都学派の牙城であったときの栄光を、ぜひ取り戻してもらいたいものだ。サヨクのお先棒担ぐ時代は、もう終わったのである。仕事で今日も東京に出かけてきた。文庫本でもと思って、新宿の紀伊国屋を覗いてみたら、岩波文庫の新刊コーナーに田辺元の『死の哲学』というのがあった。奥付には2010年12月16日と書いてあったから、まだ出たばかりである。ついつい、夜行バスの暗いなかで読みふけってしまった。そして、「仏性を実現して作仏を行ぜんとするばあい、単に平直に、潜勢を現勢化する意味において上向進歩するのは、絶対無たる真実を実現するゆえんではない。これは直接存在の生成であって、それだけでは無の無たるゆえんの自己否定を媒介としないからである」という文章にでくわした。かいつまんで言うならば、きれいごとでは、菩薩にはなれないというのだ。他の衆生を救うためには、自分が菩薩になりたいという思いも捨てて、絶対無となることを要求するのである。しかも、そこにとどまらずに「直接には自己作仏の障礙となる如き、ふつうに悪といわれる行為をも、不可避とあらば、善悪を超える無心清浄の立場で方便として敢行し」とまで書いている。かなり難解ではあるが、人生の非情さを味わいつくした哲学者の論理であり、サヨクの思想からは感じることができない、人間の肉声が伝わってくるから不思議だ。
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