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草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

統一教会の解散を命じた判決は宗教そのものの否定である

2025年04月01日 | 旧統一教会
 宗教というものをどう考えたらよいのか。人間にとっては限りなく難しい問題である。宗教そのものを断罪したのが今回の、統一教会に対する判決である。担当した裁判官は法に忠実であったわけではなく、岸田文雄が望んだような判決文を書いただけである。信教の自由を否定することで、意識するかしないかにかかわらず、私たちは全体主義の牢獄に向かっているのではないだろうか。
 クリスチャンでもある佐藤優氏が恐ろしさを訴えたのは、自分たちにも及ぶ危険性があるからだろう。佐藤氏は柄谷行人の『力と交換様式』を読むことを勧めている。そこでの核心部分は宗教への回帰ではないだろうか。
 呪力(A)、権力(B)、資本の力(C)が結合した資本としての国家を揚棄(ようき)する(D)に希望を見出すという思想は、世俗を越えた価値との交わり(交換)を通して、人間性を回復するということではないか。それを可能にするのが宗教なのである。
 そうした観点からも、どの宗教を選択をするかは自由でなければならない。国家権力の介入は断じて許されることではないのである。それをあえて行った岸田文雄や、それを支持するマスコミはあまりにも愚か過ぎて、言葉すら失ってしまうのである。世俗を突き抜ける宗教そのものを否定することは、人間が人間であることをやめることを意味するからである。
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法治を無視した統一教会解散判決は信仰の自由に反する

2025年03月27日 | 旧統一教会
 岸田文雄はあまりにも愚かである。自民党内の権力闘争に統一教会叩きを利用した。その結果どうなるか。日本の宗教界は破局的な状況になるだろう。岸田は自らその種を蒔いた意識がないらしい。無責任極まる政治家である。
 今回の件で一宗教団体を解散に追い込めることを知ったわけだから、被害者面する者たちをスターにして、マスコミがそれを擁護し、法を無視した判決が次々とまかり通ることになる。多くの宗教団体が打撃を受けるだろう。このことを仲正昌樹氏が指摘しているが、そうした冷静な議論ができないのが、今の日本なのである。
 文科省による捏造証拠なども明らかになっているにもかかわらず、それを不問にして、トンデモない判決を下したのである。これによって統一教会の財産は、不満を言い立てた者たちへの賠償にあてられ、それに関与した弁護士は金が儲かる仕組みをつくってしまったのだ。これからエホバの証人や幸福の科学もターゲットになるとみられるが、創価学会ですらも無傷ではいられないだろう。それほどまでに深刻なのである。
 仲正氏は「統一協会の信者を11年半もやっていた私にとって、心からついていける相手というのは、ノヴァーリスの『青い花』のように、生きている限り到達できない存在かもしれない」(『統一教会と私』)と書いているが、そうであっても、私たちが「青い花」を追い求めることが否定されるべきではなく、そこにおいて日常性が否定されることについては、それなりに許容すべきだろう。少数の者たちを「カルト」とレッテルを貼り、それで歓喜している大衆こそが、恐るべき「カルト」集団なのである。
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岸田首相の旧統一教会叩きは世論への迎合だ

2023年09月10日 | 旧統一教会
 旧統一教会を解散に追い込むために岸田首相は躍起になっているが、それはマスコミの魔女狩りに加担することではないか。文科省が質問権を行使したにもかかわらず、全てに答えないという理由で、国が裁判所に過料に課すことを求めているのは異常である。微罪であるにもかかわらず、犯罪者としてレッテルを貼り、それを口実にして旧統一教会を追い詰めたいのだろう。
 そんなことが通用するのであれば、旧統一教会に限らず、全ての宗教団体が問題になりかねない。岸田首相はマスコミがつくりあげた世論に便乗し、それで内閣支持率を少しでもアップさせ、解散総選挙の争点にしたい魂胆が見え見えである。
 昨年の段階で成立した被害者救済新法にしても、寄付行為が悪だと決めつけており、それは個人の信仰の自由の侵害にほかならない。
 そしてそれが正しいというのであれば、宗教団体にとどまらず、あらゆる団体に対する個人の寄付行為もチェックされるべきだろう。
 キリスト教のなかには、収入の10分の1の献金を求めたりすることろもある。普通に考えれば、所得の少ない人たちにとっては大変なことである。仏教の戒名にしても、印伝号ともなればとんでもない金額をお寺に払うことになるが、それにも国家権力が口を出すのだろうか。
 旧統一教会を悪者扱いにすると、そこまで波及せざるを得ないのである。共産党の党費や徴収や赤旗の講読にしても、無理矢理という場合もあるのだ。
 寄付そのものが正当であるかそうでないかは、それぞれの個別的事案として司法の場で争えばいい。安倍内閣の時代に取り消しができるような法案が通ったことで、旧統一教会をめぐる裁判は格段に減った。
 旧統一教会を弁護するつもりはないが、それが蟻の一穴となって信仰の自由が奪われることを恐れるのである。宗教は常識では判断できないからだ。
 法を犯さない限り、宗教活動を容認するというのが近代市民社会なのである。多様性を尊重するのであれば、いかなる宗教団体の活動も認められなければならない。それを規制するにあたっては、国家権力の恣意的な介入は断じて避けなければならない。魔女狩りで大騒ぎしてヒステリーになっている方が、カルトそのものなのである。
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