宗教というものをどう考えたらよいのか。人間にとっては限りなく難しい問題である。宗教そのものを断罪したのが今回の、統一教会に対する判決である。担当した裁判官は法に忠実であったわけではなく、岸田文雄が望んだような判決文を書いただけである。信教の自由を否定することで、意識するかしないかにかかわらず、私たちは全体主義の牢獄に向かっているのではないだろうか。
クリスチャンでもある佐藤優氏が恐ろしさを訴えたのは、自分たちにも及ぶ危険性があるからだろう。佐藤氏は柄谷行人の『力と交換様式』を読むことを勧めている。そこでの核心部分は宗教への回帰ではないだろうか。
呪力(A)、権力(B)、資本の力(C)が結合した資本としての国家を揚棄(ようき)する(D)に希望を見出すという思想は、世俗を越えた価値との交わり(交換)を通して、人間性を回復するということではないか。それを可能にするのが宗教なのである。
そうした観点からも、どの宗教を選択をするかは自由でなければならない。国家権力の介入は断じて許されることではないのである。それをあえて行った岸田文雄や、それを支持するマスコミはあまりにも愚か過ぎて、言葉すら失ってしまうのである。世俗を突き抜ける宗教そのものを否定することは、人間が人間であることをやめることを意味するからである。