草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

夢二ファンは心の優しい人ばかりだ 喜多方の月見橋で講演

2024年07月07日 | エッセイ
 宵待草が咲く喜多方市の田附川にかかる月見橋の近くで、昨日の夜は夢二の話をしました。少しばかり雨が降りましたが、「夢二ファンは心の優しい人ばかり」ということを再確認しました。
 世間によく知られた夢二ではなく、秋山清が指摘するような「女々しくもあり、汚れもし、感傷癖もありながら、自我を彼の奥底で支えたものは、ヒューマニズムとレジスタンスであった。それを抱持して夢二が、孤立して日本とさえも対立し得たのは、弱い彼の、女たちへの愛情であった」(『夢二とその時代』)というのを、少しでも分かっていただければ、それだけで感謝です。
 しかし、そのことは平民社に出入りし、社会主義者に接近した夢二をことさら強調することではありません。一緒に共同生活までした荒畑寒村らと袂を分ったのは、科学的社会主義なる暴力肯定の理論に対して、ユートピア的な社会主義を思い描いたからです。
 美人画ではなく、女絵であったところに夢二の、人間としての優しさがありました。悲惨な境遇のなかでありながらも、そこで必死に生きていた女たちへの共感は、血の通った夢二のあの絵となって結実したのです。
 信州の富士見療養所で死去する前年の昭和8年、欧米旅行後で憔悴(しょうすい)しきった夢二が喜多方市の知人を訪ねたという話は、どこにも記録が残っていませんが、なぜか本当のことのような気がしてなりません。そこにもまた、夢二の絵のモデルになるようは儚(はかな)い女性の姿があったように思えてならないからです。
みちのくの紅灯(こうとう)の巷(ちまた)御清水に山高帽の夢二は涙目
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今日は仕事をせずにボンヤリとしていたい

2024年04月30日 | エッセイ
 今日はゆっくり過ごしたい。山場を迎えた仕事もしないで、1日ぼんやりとしていたい。せいぜい行きつけの喫茶店に顔を出すだけ。大怪我をして退院してから、わけもなく走り続けた。それからもう3年以上が経過してしまった。
 自分のための本『土俗と変革』一冊だけを考えていたが、すでに3冊も世に出した。今年中にあと2冊を考えている。人並みの体ではないが、最近は誰の手も借りず、一人で上京して、大学生時代に暮らした池袋界隈を歩き、ジュンク堂では新刊書を買ってきた。
 5月の連休明けからラストスパートで駆け抜けたい。そして原稿を仕上げたら、国道8号線を車で走ってみたい。日本海を臨む市振りの海岸で、終日海を見ていたい。丸岡城も訪ねてみたい。
 山に囲まれた盆地に住むと、なぜか海が恋しくてならない。無性に旅をしたくなったあのとき、訳も分からず、国道8号線を南に向かった。まだ若かったからだろう。
 よくぞここまできたものだと思う。終活とかいって、本を捨てる人たちがいるが、それは私にはできない。学者と比べれば、たいした蔵書の数ではない。貧しい暮らしのなかで、無理をして集めた本に囲まれて、今日だけはゆっくりしたい。
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徳一ゆかりの法用寺には長谷寺の伝説も

2023年08月07日 | エッセイ
 会津美里町雀林の法用寺は、酷暑のなかであっても、往時を偲ばせる雰囲気をたたえていました。徳一ゆかりの寺としてよく知られた所です。
 会津坂下町方面から向かったため、新鶴を過ぎてから、ハンドルを右に切り、会津只見線のレールを越えて、盆地西の山沿いに到着しました。
 出迎えてくれたのは、二王門の金剛力士像(国重文)でした。本物はそこから先の観音堂に安置されていますが、写真だけが飾ってありました。
 それから会津三十三観音霊場の二十九番札所である観音堂に手を合わせました。徳一がお寺を建てる以前の養老4(720)年、得道が開基したと伝えられ、大和桜井の長谷寺との深い縁が伝説として残されています。
 真実のほどは分かりませんが、全く根拠がないわけではありません。江戸時代の将軍綱吉以前は、長谷寺は法相宗の興福寺の末寺でした。
 いうまでもなく、法相宗の僧であった徳一は、東大寺や興福寺で学んだといわれています。
 安永9(178〇)年竣工で、会津で唯一残っている三重塔の周囲を歩いていると、無住の寺でありながらも、その静けさがありがたく思えてなりませんでした。

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昭和40年代後半の椎名町

2023年02月03日 | エッセイ
あれから歳月経ちまして
変わってしまった椎名町
僕のいたころあのときは
駅を降りれば左には
アーケードがありまして
立ち食い蕎麦に古本屋
いつも顔出す馴染み客
金がなければ本を売る
僕の本はすぐ売れる
目利きの才を認められ
店主に僕は喜ばれ
鼻高々でありました
一日一食蕎麦だけで
過ごしたときが懐かしい
右に曲がれば陸橋で
そこをくぐれば定食屋
風呂屋が並んだおりました
僕の住んでたアパートは
トイレが共同四畳半
近くに中華料理店
箱を積んでる果物屋
あの頃広い道だとか
勝手に思っていましたが
狭い路地裏こそこそと
蠢く人がいたのです
名前も忘れた喫茶店
「がきデカ」読んで
ゲラゲラゲラゲラ
笑った僕は若かった
当時の人は見当たらず
世のうつろいに涙です
向田邦子のエッセイに
なぜか出てくる椎名町
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一日一冊の感想をメモする喜び

2022年08月25日 | エッセイ
 僕が原則として、一日一冊の感想をアメーバーブログにアップするのは、あくまでも僕自身のためである。これまで読んだことがある本が大半で、もう一度読み直すことで、自分の意識にとどめて置きたいのだ。メモしなければすぐに忘れてしまうから、それしか手がないのである。あまりにも多方面にわたるのは、僕の興味の範囲が定まっていないからだろう。
 カードのようなもので、いつか役に立つかもしれないが、今のところは、そんな予定はまったくない。本の森に分け入って、そこで得た断片をつなぎ合わせるというのは、結構骨の折れる作業であるからだ。
 読み手の僕は自分を無にしてそれぞれの筆者になり切る。読み終わってから、自分に戻り、心に残った部分を少しだけ掘り下げるのだ。そんなたわいのないことで、老いた僕の心が癒されるのである。ただ漠然と読んでいるのと違って、少しは身についたような気になるからだろう。
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我が母は日本の母!

2014年09月10日 | エッセイ

母は83歳まで生きてくれたわけですから、大往生の部類かも知れません。でも誰にとっても親は親です。それは僕にとっても同様です。30歳の時に夫を亡くした母は、女であると同時に男の役割も負わなくてはなりませんでした。当然の如く働いていましたが、食事の手を抜くことはありませんでした。不思議だったのは、母は子供たちの前で御飯を食べなかったことです。自分は残りものを後で整理していたのでしょう。裕福な家庭に生まれながら、予科練帰りの父と恋愛し、親の反対を押し切っての結婚でした。子供の頃に僕は目を怪我しましたが、それが痛恨事であったようです。さらに、僕の場合は何度となくデスペレートな気持ちになりました。それを乗り越えるにあたっても母の存在は大きいものがありました。極左にかぶれていた僕が、常識を重視する保守になったのも、母の血を引いていたために、最終的には憎悪の哲学とは無縁であったからです。昨日、母の亡骸は荼毘に付されました。しかし、僕は死者は生者とともにある、との土俗的信仰心を持つています。言葉では答えてくれなくても、母は僕と共にいてくれるのです。

   

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秋風が身にしむ季節と芭蕉の「野ざらし紀行」!

2012年10月10日 | エッセイ

 秋風が身にしみるようになってきた。この季節になると、決まって芭蕉の句が思い出されてならない。「野ざらしを心に風のしむ身かな」「猿(ましら)聞く人捨子に秋の風いかに」の二つの句である。人の世のあてどない歩みは、最終的には白骨をさらすだけであり、それが野ざらしになっているのが胸に迫るのである。しかも、人生を旅にたとえるならならば、途中で行き倒れになるのが、ある意味では理想ではないだろうか。そして野辺に屍を横たえるのである。そこに吹き渡る風が天空に魂を運んでくれるのではないだろうか。もっと切ないものがこみあげてくるのは、捨て子が放置されている情景を詠んだ句である。そこに人生のつれなさが感じてならない。人命尊重の観点からも、本来であるならば、抱きかかえて助けてやるべきであるのに、それを無視して通り過ぎてしまう。そこに人の世のはかなさを見るのが、日本人の常なのではないだろうか。芭蕉は「いかにぞや、汝父に悪まれたるか、母に疎まれたるか。父は汝を憎むにあらじ。母は汝を疎むにあらじ。ただこれ天にして、汝が性の拙なきを泣け」と言ったのである。「野ざらし紀行」に収録された二つの句から、いかんともしがたい運命に翻弄されるのが人生であることを、還暦を過ぎてようやく私も身につまされるようになった。老いにさしかかって、どこまで歩いていけるかは心もとない。しかし、歩けるところまで歩きたいと思う。


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秋の夜長の酒の肴は井伏鱒二の『厄除け詩集』!

2012年10月05日 | エッセイ

 去る30日の中秋の名月は、酒にもありつけずに、忙しく過ぎてしまった。暑い夏が過ぎて、会津もひんやりとした季節になってきた。井伏鱒二の詩などを、心静かに噛みしめたくなるのは、私が還暦を迎えたこともあるのだろう。「今宵は中秋名月/初恋を偲ぶ夜/われら万障くりあわせ/よしの屋で独り酒をのむ」。今夜あたりは冷酒ではなく、熱燗をお猪口で飲んでみようと思う。「よしの屋」というのは、新橋にあった縄のれんの飲み屋である。とくに私が気に入っているのは「春さん蛸のぶつ切りをくれえ/それも塩でくれえ/酒はあついのがよい/それから枝豆を一皿」の一節である。ぶっきらぼうな言い方が、かえって人間臭さを感じる。春さんとはその店の親爺だそうで、野々上慶一の『思い出の小林秀雄』によれば「チャキチャキした下町風のかみさんと二人で」やっていたという。最近は酒の席でからんだり、喧嘩をしたりするのも、ほとんど見かけなくなってしまった。不満とか不平とかをぶちまける場もなくなって、それこそ歩きながら、独りでぶつぶつつぶやいているのだろうか。井伏鱒二のペーソスというのは、庶民の人情の機微を熟知していたからだろう。『厄除け詩集』を引っ張り出して、それを酒の肴にすると、酔いが回るのが早いから不思議である。私の人生に救いがあるとすれば、井伏鱒二や小林秀雄の書に親しむことができたことだ。酒の有難さが身に沁みるのも、そのせいではなかろうか。


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ブログなどのネット言論が活発なのは乱世であるからだ!

2012年06月03日 | エッセイ

 もう2年以上になるが、毎日朝晩ブログを書くのが日課になってしまった。わずか原稿用紙1枚半程度の文章というのは、100㍍競争ではなく、せいぜい50㍍競争程度で、瞬発力が勝負である。慌ただしくネタを仕込み、それに味付けをするのだ。腹が立つことばかりなので、黙っているわけにはいかないのである。とくに、昨年3月11日の原発事故以降の日本の政治は、目に余るものがある。国家としての統治能力がない民主党政権では、国民に不安感を与えるだけだ。さらにはマスコミも同罪で、同じサヨクのよしみで、それを黙認するにいたっては、何をか言わんやである。世の中がずっこけているので、ついついパソコンに向かうことになるのだ。尾崎放歳の句に「人をそしる心を捨て豆の皮むく」というのがある。本来であれば、もう還暦を過ぎたわけだから、エキサイトせずに人生を達観してもよさそうなのに、今の時代はそれを許してくれないのである。しかも、右とか左とかの単純な色分けではすまなくなっており、一筋縄ではいかない。私はグローバリズムに一貫して反対であり、国家として身構えるべきだと主張している。しかし、その一方で原発には懐疑的であり、楽観的な未来などは露ぞ考えたことがない。私はそれが正しいと思っており、どこまで書き続けられるかは天のみ知るだが、まだまだ人生を達観するわけにはいかないのである。

 
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イサベラ・バードの『日本奥地紀行』に記された峠越えの駅場

2012年06月01日 | エッセイ

 今日の午前中、会津美里町の市野まで車で出かけてきた。会津はどこに出るのにも峠を越えなければならないが、廃れた峠道に乗り入れると、不思議と心が落ち着く。そこに向かう途中に桐の花が咲いていた。「いつとなくいとけなき日のかなしみをわれにおしえし桐の花はも」という短歌を芥川龍之介が残している。桐の花から汚れなき幼い日を連想したのだ。淡い紫色の筒状で、甘い香りが漂っているのが桐の花である。奥ゆかしさがあるだけに、山が連なる奥会津には、ことさらその花が似合う。ほのかに咲くからだろう。平成2年に林道が開通したことで、以前のように下郷町の大内宿まで通行が可能になった。会津西街道は大内宿から関山を経て若松に出るルートもあったが、イサベラ・バードは市野から高田を目指したのである。バードは『日本奥地紀行』で「そこの駅場係は女性であった。女性が宿屋や商店を経営し、農業をやるのは男性と同じく自由である」と書き記している。バードは鉄火肌のような会津女を目撃したのだろうか。そうではなくて、身を粉にして働く健気さに、心打たれたのだと思う。バードがそこを馬で通ったのは、明治11年6月28日のことである。すでに桐の花は散っていたとしても、可憐な会津女が出迎えたのだろう。耳を澄ますと馬のいななきが聞こえてきそうで、峠越えの駅場であった集落を前に、勝手にそんなことを想像してしまった。

 
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