政治家はもともと井戸塀政治家であったのだ。平民宰相であった原敬について、徳富蘇峰は「富と貴とは、卿等の取るに任す。難題と面倒とは乃公に一任せよとは、原君が其の同僚に対する態度であった」(『第一人物随録』)と書いている。
原が住んでいた家は、芝公園の古色蒼然(こしょくそうぜん)とした手狭な家であった。岡義武によれば「土地は借地で、東京市の市有地であった。庭も狭く、家の内部も万事つつましく質素であり、玄関傍の北向きの六畳の小部屋が来客の待合室にあてられていたが、そこの座布団などは丁寧につくろわれた継ぎ剥ぎだらけのものであった」(『近代日本の政治家』)という。
政友会の党員のためには、惜しみなく金を使ったが、自らの生活は質素そのものであった。安政年間に生まれた原は、盛岡藩の家老に生まれながら、会津と同じように賊軍の汚名を着せられた。
それだけに、非藩閥としての苦渋を何度もなめた。政友会総裁として首相の座にまで上り詰めたのは、一にも二にも政治的センスがあったからであるが、政治を金儲けと考えなかったから、人が付いてきたのではないだろうか。ネット時代で、ビジネスで政治を語る人たちとは、志そのものがまったく違うのである。
ここ二、三日の会津は寒い朝が続いています。大地が冷えて寒々としています。朝の食事をし、薬を飲み、それからパソコンに向かいます。午前中はたわいもない文章を書き、寝不足なので軽く休憩してから散歩に出ます。そして、いつもの喫茶店で珈琲を飲んで帰ってきます。本格的に仕事をするのは夕食の後からです。
毎日がその繰り返しですが、本一冊分の原稿をまとめるためには、それなりの努力が求められます。日々書き溜めるしかないからです。ノンフィクションを書きますから、取材と膨大な資料を読み込まなくてはなりません。期限が決まっていますから、これまた大変です。
能力のあるなしにかかわらず、売文の徒というのはそんなものなのです。読書も調べ物が中心ですが、息抜きには今は、井上靖の小説を読んでいます。
これからどれだけ仕事を続けられるか分かりませんが、一日元気で過ごせれば、それだけで満足です。
政治には期待し過ぎてはならない。その通りだと思う。バラ色の夢など誰も実現してはくれないからだ。耳障りのいいことを主張しても、大半は期待外れに終わるからだ。
それでも選ぶしかないから、消去法で保守的な政党を選ぶことになる。甘い幻想は抱かずに、リアリストに徹するのである。断じて許せないのは、お上が威張り散らすことであり、私たちを監視し、平気で牢獄にぶち込む体制である。それだけは断じて阻止しなくてはならない。
代々木の共産党を批判するのは、党官僚の下僕となる根性を軽蔑したからだ。新左翼の諸党派に与しなかったのも、革命ごっこの限界を感じたからである。
自民党の中枢が、中国に媚びているのは、財界を喜ばすためとか色々あるだろうが、権威主義的全体主義の恐ろしさを知らないからだろう。欧米が絶対であるわけもないが、それよりは益しなのである。そして、虚無主義者の辻潤が「私はこれでも少しばかり自分の同胞や生まれた国のことを心配しているつもりだ」の一言が、今考えている全てなのである。
今日から本格的な仕事がスタート。出版社に電話をかけたり、雑誌社にメールをしたりで大忙しです。今年中に本を三冊出す予定。老いた身には厳しくもありますが、それが励みになっています。
一つに的を絞ればいいのに、何もかにも興味を持ってしまうからてんやわんやです。大した書斎でもありませんが、本が山積みになっています。乱雑なので、探していた本にひょっこり対面することがあります。そのちょっとしたことで、仕事が進むから不思議です。
後どのくらいできるかは、まさしく神のみぞ知るです。頼まれれば何でもします。売文業とはよく言ったものです。パソコンを新しくする予定なので、もう一頑張りしたいと思っています。今年もよろしくお願いいたします。
一つに的を絞ればいいのに、何もかにも興味を持ってしまうからてんやわんやです。大した書斎でもありませんが、本が山積みになっています。乱雑なので、探していた本にひょっこり対面することがあります。そのちょっとしたことで、仕事が進むから不思議です。
後どのくらいできるかは、まさしく神のみぞ知るです。頼まれれば何でもします。売文業とはよく言ったものです。パソコンを新しくする予定なので、もう一頑張りしたいと思っています。今年もよろしくお願いいたします。
若い頃と違って、かかりつけの医院に行くのも億劫ではなくなった。同病相哀れむの同年代の人たちと顔を合わせるからだ。同じように齢を重ねて行くのであり、それである意味救われるのである。
パスカルは「われわれは自分自身をほとんど知らないので、多くの人は建康であるとき、死にはしないかと考え、死にかけているとき、健康であると思う。熱がでそうになっていても、瘍ができかけていても気がつかない」(『パンセ』由木康訳)と書いている。
パスカルの言葉は真実であるが、何も知らないで、能天気に生きた方が、人間は幸福かもしれない。病気であると告げられた瞬間に、人間は病人となってしまうからである。気晴らしをして、現実に差し迫っている限界状況に打ち震えているよりも、無知であれば心配せずにすむからだ。
老いた身を引きずって医師通いをしていると、色々な不安が頭をよぎってならないが、今日やるべきことをするしかない。その積み重ねに明日があるかどうかは、神のみが知ることであり、私たちにはどうにもならないことなのだから。
パスカルは「われわれは自分自身をほとんど知らないので、多くの人は建康であるとき、死にはしないかと考え、死にかけているとき、健康であると思う。熱がでそうになっていても、瘍ができかけていても気がつかない」(『パンセ』由木康訳)と書いている。
パスカルの言葉は真実であるが、何も知らないで、能天気に生きた方が、人間は幸福かもしれない。病気であると告げられた瞬間に、人間は病人となってしまうからである。気晴らしをして、現実に差し迫っている限界状況に打ち震えているよりも、無知であれば心配せずにすむからだ。
老いた身を引きずって医師通いをしていると、色々な不安が頭をよぎってならないが、今日やるべきことをするしかない。その積み重ねに明日があるかどうかは、神のみが知ることであり、私たちにはどうにもならないことなのだから。
昨日は昔から世話になっている社長さんと、喜多方の駅前の喫茶店でお会いした。僕が会津に戻って来て何もやることがなく、ろくな仕事にもついていないときに、原稿を書くことを勧めてくれた人だ。そのときの僕は20代後半だった。世の中に溶け込めず、みすぼらしくやせ細った青年であった。
その後、広告の仕事をしながら、雑文書きになった。才能がある無しよりも、それしか生きていく手段が見当たらなかった。しかし、そのときに社長さんの雑誌に連載して、後になってまとめたのが『郷愁の民俗学柳田国男のノート』であり、僕の処女作であった。自費出版で世に問うたのである。
あれから30冊以上の本に関係するようになったが、今読み返してみると、文章はともあれ、若いときの気負いが、なぜか新鮮に感じてならない。
その社長は今でも雑誌を出し続けている。年齢は80近くにもなっている。大病したにもかかわらず、お元気である。そうした生き方は僕の理想とする所でもある。残された人生何か書き続けらればと思うからだ。
その後、広告の仕事をしながら、雑文書きになった。才能がある無しよりも、それしか生きていく手段が見当たらなかった。しかし、そのときに社長さんの雑誌に連載して、後になってまとめたのが『郷愁の民俗学柳田国男のノート』であり、僕の処女作であった。自費出版で世に問うたのである。
あれから30冊以上の本に関係するようになったが、今読み返してみると、文章はともあれ、若いときの気負いが、なぜか新鮮に感じてならない。
その社長は今でも雑誌を出し続けている。年齢は80近くにもなっている。大病したにもかかわらず、お元気である。そうした生き方は僕の理想とする所でもある。残された人生何か書き続けらればと思うからだ。
宵待草が咲く喜多方市の田附川にかかる月見橋の近くで、昨日の夜は夢二の話をしました。少しばかり雨が降りましたが、「夢二ファンは心の優しい人ばかり」ということを再確認しました。
世間によく知られた夢二ではなく、秋山清が指摘するような「女々しくもあり、汚れもし、感傷癖もありながら、自我を彼の奥底で支えたものは、ヒューマニズムとレジスタンスであった。それを抱持して夢二が、孤立して日本とさえも対立し得たのは、弱い彼の、女たちへの愛情であった」(『夢二とその時代』)というのを、少しでも分かっていただければ、それだけで感謝です。
しかし、そのことは平民社に出入りし、社会主義者に接近した夢二をことさら強調することではありません。一緒に共同生活までした荒畑寒村らと袂を分ったのは、科学的社会主義なる暴力肯定の理論に対して、ユートピア的な社会主義を思い描いたからです。
美人画ではなく、女絵であったところに夢二の、人間としての優しさがありました。悲惨な境遇のなかでありながらも、そこで必死に生きていた女たちへの共感は、血の通った夢二のあの絵となって結実したのです。
信州の富士見療養所で死去する前年の昭和8年、欧米旅行後で憔悴(しょうすい)しきった夢二が喜多方市の知人を訪ねたという話は、どこにも記録が残っていませんが、なぜか本当のことのような気がしてなりません。そこにもまた、夢二の絵のモデルになるようは儚(はかな)い女性の姿があったように思えてならないからです。
みちのくの紅灯(こうとう)の巷(ちまた)御清水に山高帽の夢二は涙目
世間によく知られた夢二ではなく、秋山清が指摘するような「女々しくもあり、汚れもし、感傷癖もありながら、自我を彼の奥底で支えたものは、ヒューマニズムとレジスタンスであった。それを抱持して夢二が、孤立して日本とさえも対立し得たのは、弱い彼の、女たちへの愛情であった」(『夢二とその時代』)というのを、少しでも分かっていただければ、それだけで感謝です。
しかし、そのことは平民社に出入りし、社会主義者に接近した夢二をことさら強調することではありません。一緒に共同生活までした荒畑寒村らと袂を分ったのは、科学的社会主義なる暴力肯定の理論に対して、ユートピア的な社会主義を思い描いたからです。
美人画ではなく、女絵であったところに夢二の、人間としての優しさがありました。悲惨な境遇のなかでありながらも、そこで必死に生きていた女たちへの共感は、血の通った夢二のあの絵となって結実したのです。
信州の富士見療養所で死去する前年の昭和8年、欧米旅行後で憔悴(しょうすい)しきった夢二が喜多方市の知人を訪ねたという話は、どこにも記録が残っていませんが、なぜか本当のことのような気がしてなりません。そこにもまた、夢二の絵のモデルになるようは儚(はかな)い女性の姿があったように思えてならないからです。
みちのくの紅灯(こうとう)の巷(ちまた)御清水に山高帽の夢二は涙目
今日はゆっくり過ごしたい。山場を迎えた仕事もしないで、1日ぼんやりとしていたい。せいぜい行きつけの喫茶店に顔を出すだけ。大怪我をして退院してから、わけもなく走り続けた。それからもう3年以上が経過してしまった。
自分のための本『土俗と変革』一冊だけを考えていたが、すでに3冊も世に出した。今年中にあと2冊を考えている。人並みの体ではないが、最近は誰の手も借りず、一人で上京して、大学生時代に暮らした池袋界隈を歩き、ジュンク堂では新刊書を買ってきた。
5月の連休明けからラストスパートで駆け抜けたい。そして原稿を仕上げたら、国道8号線を車で走ってみたい。日本海を臨む市振りの海岸で、終日海を見ていたい。丸岡城も訪ねてみたい。
山に囲まれた盆地に住むと、なぜか海が恋しくてならない。無性に旅をしたくなったあのとき、訳も分からず、国道8号線を南に向かった。まだ若かったからだろう。
よくぞここまできたものだと思う。終活とかいって、本を捨てる人たちがいるが、それは私にはできない。学者と比べれば、たいした蔵書の数ではない。貧しい暮らしのなかで、無理をして集めた本に囲まれて、今日だけはゆっくりしたい。
自分のための本『土俗と変革』一冊だけを考えていたが、すでに3冊も世に出した。今年中にあと2冊を考えている。人並みの体ではないが、最近は誰の手も借りず、一人で上京して、大学生時代に暮らした池袋界隈を歩き、ジュンク堂では新刊書を買ってきた。
5月の連休明けからラストスパートで駆け抜けたい。そして原稿を仕上げたら、国道8号線を車で走ってみたい。日本海を臨む市振りの海岸で、終日海を見ていたい。丸岡城も訪ねてみたい。
山に囲まれた盆地に住むと、なぜか海が恋しくてならない。無性に旅をしたくなったあのとき、訳も分からず、国道8号線を南に向かった。まだ若かったからだろう。
よくぞここまできたものだと思う。終活とかいって、本を捨てる人たちがいるが、それは私にはできない。学者と比べれば、たいした蔵書の数ではない。貧しい暮らしのなかで、無理をして集めた本に囲まれて、今日だけはゆっくりしたい。