無政府状態を待望するのが日本のサヨクではないか。大江健三郎や柄谷行人にしても、危機が顕在化することを待望しているのではないか。大江は『セブンティーン』で、右翼のテロリスト少年を描くにあたって、行動の原理を不安からの解放に求めた。柄谷も60年安保のブンド時代を懐古して、「私はブンドの破壊性、過激な行動性が気に入ったのであって、理論的なおしゃべりなどはどうでもよかった」(『60年代と私』)と言い切ったではないか。彼らの主張である脱原発も、本来は反近代の思想に裏打ちされていなければならいはずだ。サヨクの頼みの綱であるマルクスは、反近代とは真っ向から対立する近代主義者であった。60年代の新左翼の学生活動家のバイブルになっていたのは、初期の代表作『経済学・哲学草稿』である。近年になって長谷川宏訳も出て、かなり読みやすくなったが、そこでは自然科学の成果を高く評価している。産業を媒介することで、人間の解放に結び付くことを予言したのだった。「自然科学は、一見して間化を完成せざるをえないものではあるが、産業を媒介にしたその活動は、実践的に人間の生活に深く入り込み、人間の生活を改革して人間の解放を準備するものとなっている」と書いたのである。今風に言うならば、原発推進である。日本のサヨクはマルクス主義から決別したとすれば、何を根拠にしているのだろう。大江や柄谷にはそれを語る責任があるのではないか。
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