春愁い
2025年03月02日 | 詩
時は巡りて
また春が来て
桜の花が
咲いては散って
川面に浮び
流れて去って
人の命の
はかなさ教え
別離の数だけ
涙の粒を
大地に落とす
そんな季節の
時の流れに
愛しさ覚え
ふと立ち止まる
春の陽だまり
君のことなど
思い出してる
つかの間の春
寒い朝は身体が
とりわけ痛い
薬を飲み横に
何とか生かされて
ここまできた
それでも一日が
愛おしいから
ひたすら仕事を
老いの身は
悲しくも辛い
自分の世界に
引き込もるのは
もう少し後に
じっと雪景色を
静かに眺める
とりわけ痛い
薬を飲み横に
何とか生かされて
ここまできた
それでも一日が
愛おしいから
ひたすら仕事を
老いの身は
悲しくも辛い
自分の世界に
引き込もるのは
もう少し後に
じっと雪景色を
静かに眺める
人付き合いも
ほどほどとなり
騒がしき令和六年
何とか越せば
今年も終わり
ただそれだけで
感謝あるのみ
生きているのを
噛みしめてます
本読むことが
生きがいでして
『源氏』がいいと
今ごろになり
漢和辞典の
ありがたさなど
この年齢で
読み切れぬ本
歳末ならば
なおさら淋し
窓の外は
一面の雪
音なき世界に
しんしんしんと
雪がつもる
冬の只中に
褞袍を着て
四畳半で
キーボードを
どこまでも雪に
埋もれていく
そんな暮らしが

十二月に入ったこともあり、萩原朔太郎の「乃木坂倶楽部」の詩をなぜか口にしたくなります。「十二月また來れり。なんぞこの冬の寒きや。」の冒頭の部分は。ことさら切ないものがありますし、「我れは何物をも喪失せず また一切を失ひ盡せり。」という言葉の響きは、朔太郎の個人的な境涯を超えて、当時の日本のおぞましい現実を表現しています。
朔太郎のこの詩は昭和4年12月につくられており、その前年には妻と別れ、一度は郷里の前橋に戻ったものの、再起を期して麻布にある洋式アパートに転がり込んだのでした。
しかし、この詩は個人的レベルだけにとどまりません。昭和4年には世界恐慌が日本にも波及し、我が国は空前の不況に襲われました。浜口雄幸内閣が金解禁に踏み切り、緊縮財政に舵を切ったことで、昭和維新の運動にも火が付くことになりました。それから515事件、満州事変、2・26事件などがあってから、昭和16年の大東亜戦争に突入するのです。
朔太郎もまた、保田與重郎らの同人誌「日本浪漫派」に加わった詩人でした。それだけに大いなる敗北を予言したのでした。東アジアの安全保障環境が緊迫しているにもかかわらず、政治は打開策を見出せずにいます。経済の舵取りも危ういものがあります。昭和4年のときのような茫漠たる世界の前で、不安感にさいなまれているのが私たちではないでしょうか。

もう6月ですから
梅雨に入る前に
旅に出るのは
いつものことです
日本海の砂浜で
沈む夕日を
ひとりぼっちで
眺めるのです
山また山を
軽のオンボロで
越えて行くのです
ブックオフで買った
クラッシックを
訳なくかけて
ひたすら車を
どこまでも
どこまでも
走らせるのです
もう6月ですから
決まって旅に
それが僕の
僕への務め
梅雨に入る前に
旅に出るのは
いつものことです
日本海の砂浜で
沈む夕日を
ひとりぼっちで
眺めるのです
山また山を
軽のオンボロで
越えて行くのです
ブックオフで買った
クラッシックを
訳なくかけて
ひたすら車を
どこまでも
どこまでも
走らせるのです
もう6月ですから
決まって旅に
それが僕の
僕への務め
政治について、毎日のように語ることは、本当は好きではありません。あまりにも酷いので、ついつい口出しをしてしまいますが、それが僕の本心ではありません。宮沢賢治の「政治家」という詩があります。これがまた核心を突いています。
あっちもこっちも
ひとさわぎおこして
いっぱい呑みたいやつらばかりだ
と書いているからです。政治家ばかりでなく、最近ではユーチューバーまで、政治家と同じように騒動師になってしまいました。「ひとさわぎおこして」という手法がそっくりなのです。
あまりにも騒がしいときには、政治的ユーチューバーと少しばかり距離を置く必要があります。ビジネスで金儲けの場合には、極端なことを語って注目されなければなりませんから、エビデンスにもとづかないことが多々あるからです。しかし、それは長続きしませんし、よほどのアジテーターでない限り無理だからです。
それと比べると、常に冷静さを保とうとする思想家や宗教家の言葉は身に沁みます。軽薄なところがないからです。僕の文章はメモ程度の意味しかありませんが、政治一辺倒ではなく、多くのジャンルを取り上げたいと思っています。
あっちもこっちも
ひとさわぎおこして
いっぱい呑みたいやつらばかりだ
と書いているからです。政治家ばかりでなく、最近ではユーチューバーまで、政治家と同じように騒動師になってしまいました。「ひとさわぎおこして」という手法がそっくりなのです。
あまりにも騒がしいときには、政治的ユーチューバーと少しばかり距離を置く必要があります。ビジネスで金儲けの場合には、極端なことを語って注目されなければなりませんから、エビデンスにもとづかないことが多々あるからです。しかし、それは長続きしませんし、よほどのアジテーターでない限り無理だからです。
それと比べると、常に冷静さを保とうとする思想家や宗教家の言葉は身に沁みます。軽薄なところがないからです。僕の文章はメモ程度の意味しかありませんが、政治一辺倒ではなく、多くのジャンルを取り上げたいと思っています。