草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

葉桜の下で

2024年04月20日 | 
葉桜の下を
トボトボ歩く
乙なもの
やるせない
浮世を生きて
その果ては
散った桜が
泥に濡れ
さもしい姿
悲しけり
涙こぼさず
見ています

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会津柳津の桜と鐘の音

2024年04月15日 | 
 めぐり来し
 春の訪れ
 只見川
 川面に桜の
 色たたえ
 仄かに香る
 気高さを
 伝える鐘に
 歓喜せる
 桜の花びら
 ありがたし
 会津柳津
 鐘の音は
 遠く遠へ
 響きけり

 
 
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隠国の集落「藤沢」

2023年08月19日 | 
 盆地北西部の丘陵地帯
 そこで暮らす人の顔も名前も
 まったく知らないのだけれど
 里山の美しい風景のまま
 純朴な人たちの暮らし
 味噌屋、お寺、製材所
 芒の向こうにトタン屋根の家々
 もう少し近づくとせせらぎが
 五枚沢川と一ノ戸川の合流点
 相川の地名の通りである
 まさしくみちのく会津の
 数少ない隠国(こもりく)の里だ

 
 
 
 
 
 
 
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秋の只見川

2022年09月24日 | 
 アメーバーブログでも連日アップしています。
ここが只見川だ
川面には緑が
低く垂れこめた
雲が帯のように
赤い橋の向こうに
点在する集落は
懐かしい昭和を
只見線会津柳津駅
ゆっくり坂を下り
粟饅頭の店を横目に
町民センター高台へ
絵でも見るように
僕は立ち尽くす
風の音のさやぐ
かすかな響きが
野の草をゆらす


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天皇皇后両陛下への万歳の声は四方八方から

2019年11月10日 | 

民が打ち振る日の丸は
沿道を埋め尽くし
万歳の声が四方八方から
生きている者たちだけでなく
今は亡き人たちまでもが
歓迎しているかのようだ
どよめきのなかに
そうした人たちの声が
かすかに聴こえてくるのは
僕だけなのだろうか
万世一系は日本の国柄だ
和を重んじ団結してきた
我らが祖先の魂は
大和島根にとどまっている
僕たちと同じように涙をこぼし
万歳の声を上げているのだ

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令和元年晩秋の裏磐梯 

2019年11月04日 | 

日が傾きかけた裏磐梯
かすかな光があふれて
釣りをする親子連れの姿が
豆粒になって消えかかる
二つに裂けた磐梯山は
宝の山というよりも
湖底に沈んだ村々の
在りししの姿の影が
目の前を過るかのようだ
そんな裏磐梯に立っていると
つまらない思い出でも
なぜか愛おしくなる

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僕らの祖国は一切を喪失せしか!

2013年11月03日 | 

物憂げなる風景は
滅びゆく日本の姿を
僕の前に現出する
荒くれた日本は
一体どこにいったのか
僕の父と母が生まれし時代の
金融恐慌と世界恐慌によって
ずたずたにされた日本は
血塗られたかなしみを
歴史にとどめたが
もはやこみあげる怒りは
どこにも見当たらない
ゾルレンとしての天皇陛下を
もはや拝み見ることはできないのか
僕らは一切を喪失せしか

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辺境会津にありて国を憂う

2011年12月09日 | 

  今も祖霊のおわす

  みちのく会津に

  ひしめいている亡霊の

  ぼくは小さな影

  辺境にありて国を憂う

  予科練に志願し

  プロペラで翔けた亡父の

  誉れ受けつぐ

  ひとひらの花びら

  そとつ国に蹂躙され

  悲しみは地をおおっている

  ぼくは小さな影

  悲しみが慟哭となる

  深い闇をたたえているだけ

  

     

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田辺利宏の「夜の春雷」と散華した者たちへの鎮魂の調べ

2011年11月03日 | 

 これまでも多くの若者が祖国日本のために殉じたのであり、その精神は今後も語り継がれるべきだろう。橋川文三の「失われた怒りー神風連のことなど」を読んでいて、なおさらその思いを新たにした。私が丸山真男門下の橋川の見解を肯定するわけはないが、戦没者学生の『きけわだつみのこえ』に収録された田辺利宏の詩「夜の春雷」について触れている箇所は、通り一遍のサヨクの文章ではなかった。田辺は日大を出て福山市の女学校で3ヶ月間教師をし、それから応召され、昭和16年八月、支那大陸で戦死した。散華した戦友への鎮魂の調べは、どこまでも美しく悲しい。「彼らはみなよく戦い抜き/天皇陛下万歳を叫んで息絶えた/つめたい黄塵の吹きすさぶ中に/彼らを運ぶ俺たちも疲れはてていた/新しく掘り返された土の上に/俺たちの捧げる最後の敬礼は悲しかった」という詩の、どこにも祖国への憎しみや呪いの言葉はない。それと同時に橋川は「明るい三月の曙のまだ来ぬ中に/夜の春雷よ、遠くへかへれ/友を拉して遠くへかへれ」という結びの部分に、はぐらかされた気すらしたのだった。それはサヨクであることを己に課した橋川自身に問題があったからではないか。避けようがない虚無を目の前にして、一編の詩に己の生を昇華させるにあたって、最終的に脳裏をよぎるのは、命を捧げるにたる存在としての祖国日本なのである。

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まんまを食わんにくした国と東電を許さねぞ

2011年08月05日 | 

 おらたちがつくった米を 
 おらたちが食わんにくなる 
 そんなごとでいいわけねえべえ 
 百姓でねえ家では 
 九州から北海道から米を買うどか 
 おらたちはそれはでぎねえ 
 おらたちがたんせいこめでつくっただがら 
 どうして捨てられんべ 
 そんなごとでは罰あたんべ 
 あたり一面黄色くなったつうのに 
 気はふさぐばっかだ 
 おらたちはおまんまで育っただべ 
 一粒一粒ありがだいがら 
 神様に捧げもんしただべ 
 おらたちは米を食うだ 
 異形の者としてさばかっちも 
 おらたちはくたまにしねい 
 怨霊となってこの世にもどり 
 死の灰を降らした者を
 ひっつかまえてやるだ 
 なじょしてでも 
 ひっつかまえてやるだ  

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