命捨つる祖国ありしと口にせし無頼な口ひげ頬撫でながら
白玉の会津地酒に酔い痴れて蒙古放浪歌ひとくさりかな
ひとひらの雲高かりし盆地なり雪の平原見下ろしている
夜となりいにしえ人と対面す雪の荒れ野に足をとられて
涙あり憤りありさすらいのつれなき身にも雪明かりかな
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命捨つる祖国ありしと口にせし無頼な口ひげ頬撫でながら
白玉の会津地酒に酔い痴れて蒙古放浪歌ひとくさりかな
ひとひらの雲高かりし盆地なり雪の平原見下ろしている
夜となりいにしえ人と対面す雪の荒れ野に足をとられて
涙あり憤りありさすらいのつれなき身にも雪明かりかな
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ネットの世界では今なお保守派が主流であるが、小沢一郎を擁護するブログが目立つようになってきた。あまりにもこじつけの議論で、読むに耐えないものばかりとはいえ、そこに共通しているのは、恥の欠如というか、倫理観のなさである。保守派以上に学歴があるインテリで、世の中を蔑んでおり、自惚れは人一倍である。ハンナ・アレントは『責任と判断』(中山元訳)のなかで、そうしたインテリについて言及している。「第三帝国の殺人者たちのことを思いだしていただきたいのです。彼らは非難の余地のない家庭生活を送っていただけでなく、余暇にはヘルダーリンの詩を読み、バッハの音楽に耳を傾けるのを好んでいました。そして、ほかの誰にも劣らず、知識人にも犯罪を犯す傾向がそなわっていることを証明したかのようでした。でも、知的な能力よりも感受性のほうが、人生においていわゆる高貴な事柄を感じる能力のほうが、大切なのではないでしょうか」と書いていたからだ。さらに、ハンナ・アレントは「道徳的な健全性を失った場合には、才能も失われるのです」と付け加えるのも忘れなかった。私から言わせれば、それは日本人としての「道徳的な健全性」ではないかと思う。根無し草になってしまった一部のインテリは、あまりにも自虐的になっているのではないか。
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