小沢一郎も追い詰められたようだ。民主党の岡田克也幹事長が、衆議院政治倫理審査会について、全面公開を求める考えを示した。予想されたこととはいえ、それが実現すれば、小沢のダメージは、より深刻ではなかろうか。保守系同士であれば、武士の情けも通用するが、相手はサヨクである。魯迅の言葉にあるように、「水に落ちた犬は打て」ということなのだろう。凶暴な犬が溝に落ちたならば、弱っているのをこれ幸いに、さらに追い打ちをかけろというのだ。民主党内でこれまで小沢に楯突けなかった者たちも、相手が反撃できないのであれば、このときとばかり小沢を足蹴りにするのだろう。四面楚歌となった今となっては、最後まで小沢と行動を共にするのは、一体何人だろう。せいぜい20人いるかどうかだろう。それを考えると、小沢は居ても立ってもいられないのではなかろうか。権力者の末路というのは、本当に哀れなものである。郷里に引きこもることをアドバイスしたのは、江藤淳あった。郷党の政治家として、小沢が再出発することを願ったのだ。しかし、小沢はその助言に耳を傾けなかった。また、保守派であった過去もかなぐり捨てて、権力闘争にうつつを抜かしてしまった。こんなはずではなかったと小沢が地団太を踏んでも、後悔先に立たずなのである。
NHKまで朝から晩まで、キャスターがニュースの解説をやらかすのには、まいってしまう。したり顔に語るのはいいが、世論誘導が見え見えの場合が多いからだ。こんなことが始まったのは、昭和50年代の後半からで、それ以降、NHKのテレビやラジオもご無沙汰するようになった。百目鬼恭三郎が「音声言語」を書いたのもその頃であった。百日鬼は「しゃべる役割を全部アナウンサーにまかせることをやめて、かなりの部分を放送記者にやらせるようになっている」と苦言を呈したのだった。アナウンサーは話すことの訓練を経ており、アクセントもしっかりしている。もちろん、訛りなどはない。それが放送記者となると、アクセントも訛りも酷い人ばかりだというのだ。その意見には私も同感だが、それ以上に抵抗があるのは、自分の主観を押し付ける傾向が強まったことだ。視聴者としては、事実にもとづく情報が欲しいのであり、できるだけ雑音は聞きたくないのである。しかも、最近はそこにセンセーショナル性が加わって、ワイドショーなどは人騒がせになってきている。かつてのNHKは、アナウンサーが落ち着いた声で、淡々とした口調で読み上げるのが常であった。コメントを付け加えたりしなかった。だからこそ、ある種の信頼感があった。NHK離れが進んだ一番の原因はそこにあるのではなかろうか。
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