草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

最高裁が戸籍上の性別には手術は不要の判決

2023年10月26日 | LGBT
 岸田首相がゴリ押ししたLGBT法案の影響がなかったかといったら嘘になる。最高裁は昨日、トランスジェンダーが戸籍上の性別を変える際、生殖機能をなくす手術を求める規定について「違憲」と判断した。
 これをめぐって色々な見方があるが、現時点では「性器を切除すべき」かは判断保留で高裁に差し戻されることになった。しかし、自民党までが賛成してLGBT法案が可決されたのを受けて、大きな流れはでき上ってしまっており、いくら三権分立ではあっても、外堀は埋められてしまった感がある。
 日本においても世界的に高まってきているマルチチュード(マイノリティーによる多数派の形成)の運動が、これからなおさら日本でも吹き荒れることになる。
 マルチチュードによって欧米各国や日本国内での分断が進み、全体主義国家が漁夫の利を占めることになるだろう。安倍元首相が危惧したように、それは守るべき日本の国柄を破壊することであり、その行き着く先は家族の解体である。
 日本保守党や参政党がどのように発言し、自民党内保守派がそれにどう呼応するかだが、あらゆる権威や価値が音を立てて崩れるなかで、私たちが何を守り抜くか試される時代が到来したのである。
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LGBT法が目指す世界とエロチシズム

2023年07月12日 | LGBT
 LGBTの議論はトイレや浴場の問題にとどまらない。それ以上に重要なのはエロチシズムをどう考えるかなのである。性を慎しみ深い世界にとどめて置くのか、それとも社会の根幹を否定する革命運動と結び付け、自由なエロチシズムを謳歌する世界を目指すのかといった岐路に、私たちは立たされているような気がしてならない。
 エロチシズムに対する足枷をなくせば、それで本当に全てが解決するのだろうか。あらゆる性的な行為が白昼の下にさらされれば、人間としての性の歓びを手にできるのだろうか。
 性が秘め事であることで、人間は過剰な生をコントロールしてきたのではないか。人間には昼と夜との二つの顔があり、そこを往復して生きているのが人間ではないのか。それすらも偽善として許されないのだろうか。性を解放するカーニバルは、あくまでもハレの日のイベントである。それ以外はたわいもない日常であることで、ハレの日が大事になってくるのである。
 あけっぴろげな性は逆にエロチシズムを衰退させることになりはしないか。LGBTの人たちが無理に自分を変える必要はないが、権力を振りかざす側に回ろうとするのには抵抗がある。禁制をなくした世界においては、逆に自分たちの居場所をなくすのではと危惧してしまうからだ。
 だからこそ、何度でもG・バタイユの言葉を引用したくなるのである。これは人間への根源的な問いかけを含んでいる。全てが認められてしまえば、エロチシズムは生息する場を失うことになるというのだ。
「エロチシズムは禁制から生れ、禁制によっていきます。そしてもし自らのうちに禁制を持たなければ、もしエロチシズムの本質にたいしてこの禁制の感情を残していなければ、私のいったような意味で、すなわと侵犯を含む意味で私たちはエロチックであることはできないでしょう。動物とおなじかたちでしかエロチックでありえず、そして私たちにとって本質的なものに到達することはできないでありましょう」『マダム・エドワルダ』(生田耕作訳)
 バタイユにとっての禁制とは、法的なレベルとともに個々人の感情までも含んでいる。マイノリティーの人権は保護されなくてはならないとしても、権力とは一定の距離を保つべきではないだろうか。プロレタリアートの名において行われた革命が、全体主義をもたらしたと同じ悲劇をもたらしかねないからである。
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性同一障害の原告が最高裁で逆転勝訴

2023年07月11日 | LGBT
 だから言ったではないか。LGBT法が通るとそれでとんでもないことになると。「千丈の堤も蟻の一穴により崩れる」のである。
 経産省に勤務する肉体は男であるトランスジェンダーの職員が、女子トイレの使用を制限されていることを不服として提訴した裁判が今日、最高裁第3小法廷で結審した。今崎幸彦裁判長は国の制限を課す対応を違法とする判決を下した。2審の東京高裁判決で適法としたのを破棄した上での原告側の逆転勝訴であった。
 これはあまりにも衝撃的であった。この職員が性同一障害者で、ホルモン治療歴があり、健康上の理由で性転換手術ができなかったことを最大の理由にはしているが、素直に判決文を読めば、その職員が女子トイレを自由に使用することを認めた内容である。
 ホルモン治療歴と健康の問題を主張すれば、もはや阻止することは困難なのである。男女の壁が低くなったことにより、社会的混乱が生れるのは必至である。医学的な根拠ほどいい加減なものはなく、そこでは本人の意思が最大限に尊重されるからだ。
 いうまでもなく、LGBT法が後押しをしたことは否めない。今後相次いで裁判を起こされれば、司法としても手に余ってしまうからであり、その法の趣旨にそって判断することを強いられたのだろう。
 LGBT法を廃案にしておけば、こうした判決にはならなかったはずだ。岸田首相が早期の法案通過を目指した背景には、今回の最高裁判決を念頭に置いていた可能性も否定できない。
 もはや笑いごとではなくなってきた。女性を守るためには、新たな法律で対抗する以外にない。そして、このような判決に根拠を与えるような決断をした、岸田首相を退陣に追い込まなくてはならない。これ以上の暴走を断じて許してはならないからである。
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厚生省の文書で身体男性が女湯に入ることを禁止できるかは疑問だ

2023年07月01日 | LGBT
 まさしく本末転倒ではないだろうか。LGBT法が成立する以前に、明確にしておく必要があったのに、今頃になって厚生省の煮え切らない文章である。しかも、稲田朋美氏が繰り返し口にしていたことを、改めて文書化しただけではないか。
 LGBT施行日の6月23日付で、厚生省医薬・生活衛生局生活衛生課長名で、各都道府県、各保健所設置、各特別区に対して「公衆浴場や旅館業の施設の共同浴室における男女の取り扱いについて」の文書を出した。
 その文面たるや「浴場業及び旅館業の営業主は、例えば、体は男性、心は女性の者が女湯に入らないようにする必要があると考えます」と書かれているだけで、平成12年12月15日付の厚生省生活衛生局長通知を再確認した内容でしかない。
 よくよく読むと「地方自治法(昭和22年法律第67号)第245条の第4項1項の規定に基ずく技術的助言」でしかないのである。
 これをもって体が男性、心が女性の者が女湯に入らないようにすることができるのだろうか。浴場業及び旅館業の営業主が「入らないでください」と言うことはできても、警察に通報するなどの権限があるかどうかなのである。
 LGBT法は理解増進を目的とした理念法であり、その方向性はあまりにも明確である。民事などで裁判になった場合に、国はどのように対応するのだろうか。現に今最高裁では、体が男性、心が女性の女子トイレの使用に関する判決が出ようとしており、そんないい加減な対応では誰も納得するわけがない。
 岸田首相は自民党ばかりでなく、日本をもぶち壊そうとしている。自民党内の国柄を守ろうとする国会議員は、いかに少数派であろうとも、断じて悪法に加担しないで欲しい。
 現在の自民党執行部がこの程度のことですむと思っているとしたならば、とんでもないお門違いである。社会の混乱を引き起こさないためにも、反LGBT法をつくるしかないのである。
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日本の保守派に喧嘩を売った岸田首相とバイデン

2023年06月21日 | LGBT

 岸田首相が許せないのは、裏で積極的に関与したLGBT法について、まったく説明責任を果たさないことである。山口敬之氏が批判するのは当然であり、それこそが議会制民主主義の否定にほかならない。考え方の違った党派や個人が、それぞれの立場から議論することで、一致点を見出す努力をしないのであれば、まったく無意味になってしまうからだ。
 いくら議員立法とはいえ、無関係であるわけがないのに、いけしゃあしゃあとしていられる神経が理解できない。どうせうるさいネット民はさておき、普通の国民に考える時間を与えなければ、穏便に事が進むと考えたのだろう。
 これによって自民党内の保守派も分断されることになったわけだから、岸田首相にとっては、願ってもないことなのだろう。背後にいて岸田首相を操っている米国も、これで日本が自立するとか言い出せなくなった、と喜んでいるに違いない。
 しかし、それは浅はかな考えである。自民党の壊れてなくなるかも知れないが、日本国民の保守化は急速に進行しており、それが大きな流れになりつつあるからだ。これほどまでに安全保障上の危機が叫ばれ、核を持たない国がどのように目に遭うかを、日々目撃しているわけだから、深刻な事態と認識して当たり前なのである。
 米国の走狗と化した岸田首相に、ここまで虚仮(こけ)にされれば、日本国民も黙っているわけはない。逆に自立した国家への道を選択することになるだろう。同盟国同士の絆を亀裂を入れたのも米国であり、今さら後悔しても始まらないのである。
 予言してもいい。必ず右派政党が日本で力を持ち、核武装に踏み出す日が来ることを。それこれもバイデンがLGBTで日本に圧力をかけ、安倍元首相が望んでいた核の共有を拒否したからである。もはやそれ以前には戻れないのである。岸田首相とバイデンが、忘れ去っていた日本国民のナショナリズムに火を付けてしまったからである。


   

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LGBT法をゴリ押しするような政党は保守ではない

2023年04月29日 | LGBT
 LGBT法案をめぐっての詰めの議論が自民党内で始まった。産経新聞は今日付けの紙面で記事にしている。自民党は昨日、党本部で「性的マイノリティに関する特別委員会」を開催したが、来月に迫ったG7サミット前の成立にこだわる声があるのに対して、「パフォーマンスだ」という異論が多数を占めた。
 とくに、そこで問題になったのは「差別の定義がはっきりしていない」「対立を生むことになる」ということだ。トランスジェンダーによるトイレや更衣室などの女性専用スペースの利用や、競技スポーツへの参加に関しても、明確な方針が示されないことへの反発が強まっている。
 衝撃的であったのは、推進派が「G7で同様の法整備がないのは日本だけだ」と主張したのに対して、衆議院法制局は「(G7各国)に性的指向・性自認に特化して差別禁止を定める法律はない」と答弁したことだ。
 さらに、最近になって、性同一性障害の人たちでつくる「性別不合当事者の会」が拙速な法案審議を避けるよう求めていることも取り上げられた。
 保守の観点からすれば、大切なものを守り育てるためにこそ、改革は行われるべきであり、混乱や分断を深めるような施策は、改革ではなく革命である。にもかかわらず、岸田首相が強引に押し切るならば、安倍さんが危惧したように、党分裂は避けられず、もはや自民党は保守政党を名乗るべきではないだろう。
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性の領域に法が介入するのは慎重であるべきだ

2023年04月28日 | LGBT
 LGBT法を拙速に通そうとしている人たちは、人間を簡単に割り切ろうとしているのではないか。マイノリティーと評される人たちの結婚を認め、個々人の判断によって性を決定することは、かえって混乱を引き起こすのではないか。
 福田恆存は『芸術とは何か』において、愛することと、理解することを一致させようとする試みを批判している。
「相手のうちの理解し得ぬ部分に対する敬虔な感情を失ひ、相手をむりやりに自分の理解のなかに閉ぢこめてしまほうとする。かうすることが相手を愛することだとおもひこんでゐるのです。そしてさらに、相手が自分の理解のうちにはまらぬ部分をもつてゐるかぎり、相手は自分を愛してくれぬのだと考へます。かうして、人々は相手を愛し理解しようとして、その孤獨を、いひかえれば孤獨によつて保たれてゐる生の秘密を殺しあふのです」
 相手を理解しようとすればするほど、迷路にはまり込んでしまい、自然の営みとの一体感も失われてしまうというのだ。これは男女関係にとどまらず、LGBTの人たちとの関係にもあてはまるのではないか。異性愛か、それとも違った愛の形を取るかは、それこそ個々人の選択に任せられるべきだが、それすらも揺れ動くのが人間なのである。
 人間としての「孤獨の領域を残すといふことと孤立するといふこととはは別であります」とも福田は書いている。「自他の孤獨を理解の海のなかにたゝきこんでしまひ、そしておたがひに得たものは孤立感といふやつです」ということにならないためにも、彼らを理解したふりをして、法律という制度をつくることは、双方にとって本当に幸福なことなのかどうかを、今こそ立ち止まって考えるべきなのである。
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エマニュエル大使のLGBT法についての発言は内政干渉だ

2023年04月27日 | LGBT
 いくら同盟国のアメリカであろうとも、日本の国柄を無視し、自分たちの考えを押し付けるのは間違っている。それはまさしく、日本を占領して置きながら、憲法を無理やり押し付けたときと同じではないか。
 アメリカですら、LGBT法をめぐって、民主党と共和党では考え方に違いがある。にもかかわらず、日本国民が決めなくてはならない問題に、ラーム・エマニュエル駐日アメリカ大使が口を差し挟むのは、内政干渉以外の何物でもない。
 聖書を絶対視してきた西欧にあっては、同性愛などは神に背くこととされてきた。ソドムとゴモラが天からの硫黄の火によって滅ぼされたという記述もあり、それに反すれば罰せられてきたのである。
 しかし、我が国は事情を異にする。『葉隠』においては、衆道(しゅどう)についての心得が説かれており、西欧のようにタブー視されてきたわけではなかった。
 さらに、LGBT法で問題視されているのがトランスジェンダーである。肉体は男であっても、心が女だと言われれば、女性として扱うしかないのである。
 性的に抑圧された人間は、不幸な結果を招くから、そうした制度を壊すべきという主張は、それなりに理解はできるが、大枠において、男女というそれぞれの役割を否定してしまって、それで私たちは本当に幸福なのだろうか。
 その役割を演じられない人たちに対して、国が救済策を講じることに関しては異論がないが、大筋を変えることには慎重でなければならない。
 サミット前に法案を通すというゴリ押しは、日本の社会に混乱をもたらすだけだ。日本には日本の国柄があり、それに即して日本国民が判断すべきなのである。
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父母という言葉を使えなくするのがフェミニズムだ

2023年02月21日 | LGBT
 どんな言葉を使用するかで、当然のごとくその言葉の意味する世界も違ってくるのではないだろうか。母とか父とかという言い方をしなくなることが、本当に喜ばしいことなのだろうか。
 童謡の「ふるさと」には「如何にいます父母(ちちはは)」という一節があるが、父親と母親にはそれぞれの役割があり、父親は厳しく、母親は優しく待っていてくれるという姿が容易に想像できる。
 過去から受け継いできた言葉を失うことは、日本人が築いてきた文化そのものを否定することになりはしないか。昨今のフェミニズムの議論にはそれが欠けているように思えてならない。どんな言葉を使うかで、日頃見慣れた世界は、まったく違ったものに見えてくるのである。
 先に大戦の敗北によって、日本人は大事な言葉を奪われた、「大東亜戦争」という文字は歴史の教科書から消された。そのとき受けた傷は未だ癒されておらず、日本人は真摯に自分の歴史に向き合えずにいる。
「男性・女性であることに基づき定められた社会的属性や機会は、変化しうるし、変えていかなければならない」というのがフェミニズムである。しかし、男女の役割という型を否定すれば、大きな混乱が生じ、大切なものが失われるような気がしてならない。
 たわいない言葉一つであっても、それを支えているのは、小林秀雄にいわせれば、日本人の「生きた己の言語組織」である。それから背を向けることになれば、その段階で日本人は日本人でなくなる。それが喜ばしいことなのだろうか。僕は懐疑的にならざるを得ない。
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