草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

記紀にもとづく建国記念の日を祝うのは日本人として当然だ!

2021年02月11日 | 歴史

今日は建国記念の日である。本来であれば国を挙げて祝うべきであるにもかかわらず、それがまったく行われていないのは、まことに残念でならない。我が国が大東亜戦争に敗れたことで、紀元節は占領軍の圧力によって廃止されていたのが、多くの国民の支持によって昭和41年に復活したのである。その当時は戦中派と言われた人たちがまだ健在で、奪われた我が国の歴史を取り戻そうとしたのである。マスコミを始めとした戦後レジームを擁護する勢力は、祝うどころか建国記念の日を無視してきたのである▼田中卓は「われらの日本国家が、皇室を中心として、およそ2千年前に成立した。その時の統治者をカムヤマイワレヒコのミコト(又はヒコホホデミのミコト)と申し上げたのであり、その御方の、漢風のおくり名が神武天皇に他ならない。すなわち、国家建設という画期的な基礎を開かれた君主を、われらは神武天皇と尊称して仰ぐのであるが、もし神武天皇を否定するならば、日本国家に創業の君主なしとしなければならぬ」(日本国家の成立と神武天皇)と書いている▼日本書記では、その即位式を「辛酉(かのととり)の年、春正月庚辰(かのえたつ)の朔(さく)、天皇、橿原の宮に帝位しめしたまふ」と記している。正月元旦は、明治6年の太陽暦の採用によって2月11日となった経過がある。それを否定ことは、日本人の文化と歴史を否定することにほかならないのである。

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悲壮感が漂う文面であった12月8日の大東亜戦争開戦の詔書!

2020年12月08日 | 歴史

山本五十六率いる連合艦隊は昭和16年12月8日、パールハーバーを奇襲攻撃し、我が国は米国と英国に対して宣戦を布告した。79年前の今日である。米国によって追い詰められていたがゆえに、我が国は無謀な戦いに突入せざるを得なかったのである▼その2年前に米国は日本商品への懲罰関税を課したほか、前年には航空用ベンジンや石油一般の供給の停止、さらに開戦の年には米国におけるすべての銀行預金の凍結、最後通牒ともいわれるハル・ノートを突き付けてきたのである。座して死を待つことをよしとせず、乾坤一擲の勝負に我が国は打って出たのである▼開戦の詔書では「朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ回復セシメムトシ、隠忍久シキニ弥リタルモ、彼ハ毫モ交譲ノ精神ナク、徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ、此ノ間却ッテ益々経済上軍事上ノ脅威ヲ増大シ、以て我ヲ屈従セシメムトス」との現状分析を踏まえて、悲壮な覚悟で「事既ニ此ニ至ル。帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為、蹶然起ッテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ」との結論に達したのだった▼東京裁判によって東条英機ら7名が「平和に対する陰謀」という罪で絞首刑に処せられた。そんな国際法はどこにもなかったのであり、事後法によって裁かれたのだ。敗れた者に弁解の余地はないとはいえ、当時の日本の政治指導者が「平和に対する陰謀」を企てたのかどうかは、後世の歴史家の判断に待つ以外にないのである。

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東京裁判の誤りを竹山道雄に語ったオランダのローリング判事!

2020年08月24日 | 歴史

戦後の日本を考えるにあたって、避けては通れないのが東京裁判である。いうまでもなくそこでは、平和に対する罪として、東条英機ら7人が絞首刑になったのだった。東京裁判をめぐっては、罪刑法定主義や裁判所の公正な構成の観点から批判がある。平和に対する罪というのは、事前に法律で規定されていなかったことで、論議を呼ぶことになった。裁判官の選任に関しても、連合国側の代弁者がほとんどであったことは否定できない▼竹山道雄が東京裁判のオランダの判事であったローリングを訪ねたのは、昭和26年に東京大学教授を退いた後であった。オランダを訪れて、疑問に思っている点を質問したのである▼2人は8年ぶりの再会であったが、ローリングが口にしたのは「あの判決はあやまりだった」という言葉であった。「俘虜虐待などに通常の戦争犯罪は別として、政策の結果として起こったことに対しては、ああいう結論にはならなかっただろう。おおむねインド人のパルのように考えただろう」ときっぱりと言い切ったのである▼自虐史観に凝り固まった日本人は、その事実を知らないし、知ろうともしないのが問題なのである。戦後75年が経過して、もう一度東京裁判について、検証すべきときが到来したのではないだろうか。それを教えてくれるのが竹山の「オランダの訪問」なのである。

 

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「平和に対する陰謀」をでっち上げた東京裁判は国際法違反だ!

2020年08月10日 | 歴史

我が国にとって先の戦争とは何であったのか。冷静に分析しなくてはならない。追い詰められた結果の開戦であり、清水の舞台から飛び落ちたようなものであった。あの当時の日本は米国によって息の根を止められようとしていた。懲罰関税、航空用ベンジンや石油一般の供給の禁止、米国内にある全ての預金の凍結などによって、窮地に立たされていた。昭和16年12月8日を待たずして、米国は平和的な手段による戦争を仕掛けてきたのである▼東京裁判では日本を経済的に絞殺しようとした米国の政策が正当化され、「平和に対する陰謀」ということで、7名が絞首刑となり、16名が終身禁固刑、1名が20年の禁固刑を宣告された。「平和に対する陰謀」というのは、あくまでも事後法でしかなく、弁護側がその罪で起訴することに反対したにもかかわらず、それがまかり通ってしまったのである▼唯一それに異を唱えたのは、インドの裁判官パルだけであった。11名の裁判官のなかで唯一国際法に精通していた。彼は、戦勝国が戦争犯罪人を裁く裁判所の設置を容認しつつも、戦争犯罪の新しい法を制定し、公布するいかなる権限もないことを、断固主張したのである。ナチスドイツとは違って、日本は民族殺戮を行ったわけではなかった。日本人だけを悪者にする東京裁判史観を、今こそ再考すべき時にきているのではないだろうか。

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復讐劇として「平和に対する罪」をでっち上げた東京裁判!

2019年12月04日 | 歴史

連合艦隊が真珠湾を攻撃したのは昭和16年12月8日のことである。あれから78年が経とうとしている。佐伯啓思が『日本の宿命』で書いているように、未だに私たちは大東亜戦争で敗れた歴史を背負っているのではないだろうか▼「大東亜戦争」を「太平洋戦争」と呼ぶように日本に押し付けたのはアメリカであった。それによって日本人の過去を否定され、「大東亜共栄圏」という言葉が死語となった。佐伯の「『戦後』とは、あることがらの強いられた忘却からはじまったといってよいでしょう」との指摘は正しいのである▼ポツダム宣言を受託したことで、東条英機らの日本の指導部は「平和に対する罪」を理由として東京裁判で有罪となり、7名が絞首刑に処せられた。佐伯は「事後法の問題、戦争犯罪の概念、侵略や共同謀議の概念の曖昧さ、証拠採用の恣意性、それに、戦勝国による裁判官の独占など、裁判としての適法性にかなり問題がある」と断言する▼あの当時欧米は植民地を世界中に持っていた。アメリカですらそうであったのに、彼らは「文明と野蛮の対決」という図式化によって日本を裁いたのである。それが許されることであるかどうか、もう一度私たちは歴史を見直すべきだろう。国際法のルールで裁かれたのではなく、勝者による復讐劇であったことを忘れてはならないのである。

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韓国との歴戦に勝つためには若手の研究者の養成が急務だ!

2019年11月07日 | 歴史

去る11月5日の虎ノ門ニュースで、朝鮮半島研究家である西岡力氏が衝撃的な発言をした。韓国との歴戦で勝つためには、史実を重視する日本側の研究者が少な過ぎるというのだ。日本国内で出版された学術書の圧倒的多数は、日本を貶めて喜ぶ者たちの本なのである▼我が国は敗戦によって、有能な人材が次々と追放された。東大の史学の中心であった平泉澄のグループにしても、主要な大学で後継者を育てることはできなかった。それと比べると、あらゆる歴史の分野で左派は強固な地盤を持っている。学閥が形成されており、多数派となっている。アカデミズムがとんでもない連中に握られているために、官界やマスコミもその影響下に置かれているのである▼韓国が「慰安婦」や「戦時労働者」で世界に向けて反日情報を発信しているのは、日本国内にそれに呼応する者たちがいるからなのである。朝鮮半島研究家ばかりでなく、かつては国史といわれた日本史の世界でも、まともな論客が育っていない。一般書や通俗的な本では、それに対抗することはできないのである▼日本の歴史を正しく学ぶことを通じて、私たちは日本人であり続けることができるのだ。残念であるのは、日本史にも精通していた、政治学者の坂本多加雄があまりにも早くこの世を去ってしまったことだ。アカデミズムが歴戦の足を引っ張っている。左派に気遣うような風潮を断つには、若い世代を育てるしかないのである。

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日本破壊のコミンテルンに異議唱えた鍋山と佐野の転向!

2019年04月25日 | 歴史

日本のリベラルや左翼が駄目なのは、反日国家の走狗となっているからだ。多くの国民はそのことを知っているから、日本共産党などの特定野党を支持しないのである▼日本共産党はコミンテルンの日本支部として大正11年に発足したが、昭和8年に外国勢力の手先になるのに異議を唱えて転向したのが、鍋山貞親と佐野学である。二人は他国に指導される革命を拒否し、日本独自の路線への転換を主張した。その当時は日本共産党の幹部であっただけに、センセーショナルな出来事として、新聞にも大きく報道された▼二人が世に問うた「共同被告同志に告ぐる書」では「日本民族が一度たりとも他民族の奴隷たりし経験なく、終始、独立不羈の生活をしてきたことの意義は甚だ大きいのである」と述べるとともに、ロシアにおけるような暴力革命を批判し、「今日の発達した文化と相俟ち新時代の代表階級たる労働階級が社会主義への道を日本的に、独創的に、個性的に、且つ極めて秩序的に開拓するを可能ならしめるであろう」と訴えた。二人は国家権力の弾圧に屈したのではなく、無理難題を押し付けてくるコミンテルンに反旗を翻したのだった▼今も当時と状況が似ている。心ある日本人であれば、中国共産党や北朝鮮の金王朝の代弁者になりたくはないはずだ。我が国を混乱させようとする外国勢力に屈するか、それを拒否するかは、祖国日本を愛するか、それとも背を向けるかの違いなのである。

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新元号「令和」をきっかけに万葉集が一大ブームに!

2019年04月05日 | 歴史

私たち日本人が立ち返るべき世界があることを、新元号の「令和」は教えてくれた。典拠は万葉集巻第五の「梅花の歌。三十二首竝びに序」であるが、それに続く歌も、その序文にふさわしい作品が並んでいる▼とくに山上憶良の「春さればまづ咲く宿の梅の花、独り見つゝや、春日暮さむ」は、折口信夫によれば「この邸の梅の花は、春がくると、第一番に咲く花だ、それを自分ひとりだけ見て、永い春の日をば、楽しんでゐてもしやうがない。人と共に楽しまう」(『口譯万葉集上』)ということである▼梅の花を観賞するにも、孤独な世界に閉じこもるのではなく、「人と共に楽しもう」ということで、喜びが二倍にも三倍にもなるのである。葛井大夫の「梅の花今盛りなり。思ふどち插頭(カザシ)にしてむ。今盛りなり」という歌にしても、「仲よし同士、頭にさして遊ばうよ。今眞盛りである」(『口譯万葉集上』)ということなのであり、かつての日本人には、共通のベースがあったのだ▼「令和」については、国民の圧倒的多数が評価しており、万葉集が一大ブームになりつつある。歌の中心は飛鳥浄御原宮から聖武天皇の奈良京であり、保田與重郎は「壬申の乱と、奈良京定着まへの席暖まる暇もない都遷りといふ変動期に、この最も美しい詩歌の集はその大半がつくられてゐた」(『日本の文學史』)と書いている。我が国は今激動の時代の只中にある。それだけになおさら、「令和」の御代の日本人に必要なのは、万葉集の美しい調べに感動する心なのである。

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「令月」と「風和やかに」の言葉こそが万葉集の精神だ!

2019年04月04日 | 歴史

我が民族の原点は万葉集である。今回の新元号はそれを思い出させるきっかけになった。「令和」の典拠は、万葉集巻第五の「梅花の歌。三十二首竝びに序」であった。大伴旅人の手になる「天平二年正月十三日、帥老の宅に萃(アツマ)り、宴曾を申(ノ)べつ。時に初春の令月(ユキツキ)にして、氣淑(キヨ)く風和やかに」の「令月」と「風和やかに」の「令」と「和」を結び付けたのである▼解釈すれば「大宰府の長官のもとに集まって宴会を開いた。めでたい月ということもあって、居合わせた人びとも穏やかで、気持ちが通じ合っている」ということだろう。グローバリズムに抗するには、日本人の一体感がどこにあるか再確認しなくてはならず、時宜を得た言葉である▼日本浪漫派の保田與重郎は『日本文學史』において「万葉集の成立に、意企や野心がなく、ただ自然がこの無比の文學をつくったということは、そのころのわが遠祖たちがすなおに信じたことばでいえば、神随(カムナガラ)、神の自然の性、人の思いや人の意志というものではなく、自然、神の性を見きはめて、それに従ったのである。こういう理想の状態によってつくられたのだ、しかし作った人はそういうものを志とした」と書いている。保田が心打たれたのは「一つの変革期に対応する人の志」であり、個々の人間の欲望や党派を超越した精神であった。だからこそ「令月」と「風和やかに」の境地に達したのである。

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「226」で野中大尉を演じた萩原健一さんの死を悼む!

2019年03月29日 | 歴史

萩原健一さんが去る26日に都内の病院で亡くなった。萩原さんはザ・テンプターズのボーカルとしてデビュー。「傷だらけの天使」などで個性的な演技をした役者であったが、もっとも衝撃的であったのは、1989年発売の映画「2・26」で、野中四郎を演じたことだ▼野中は昭和11年の2・26事件の首謀者であり、現役の陸軍歩兵大尉であった。急進的な青年将校として知られていたわけではなく、最年長であったために、蹶起趣意書に唯一名前を書いた。2月28日にピストルで自決したのは、責任を痛感したからだろう。妻宛てに遺書を残しているが、そこでは自らの行動を「万死ニ値ス」と書くとともに、「貴女ハ過分無上ノ妻デシタ 然ルニ此ノ仕末御怒リ御尤モデス 何トモ申シ訳アリマセン」と詫びたのだった▼野中は自分よりも若い者たちが立ち上がったのを、見捨てることができなかったのである。野中は歩兵第3連隊第7中隊長であったために、約400名の蹶起部隊を率いて警視庁に陣取った。皇居を占拠する計画があったともいわれるが、最終的には野中は思いとどまったのである。首謀者として死を選択するしかなかった野中の葛藤を、萩原さんは見事に演じ切ったのである。彼がこの世を去ったことで、色々なコメントが出ているが、野中四郎に扮した俳優萩原健一の名演技も忘れるべきではないだろう。

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