草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

日本破壊のコミンテルンに異議唱えた鍋山と佐野の転向!

2019年04月25日 | 歴史

日本のリベラルや左翼が駄目なのは、反日国家の走狗となっているからだ。多くの国民はそのことを知っているから、日本共産党などの特定野党を支持しないのである▼日本共産党はコミンテルンの日本支部として大正11年に発足したが、昭和8年に外国勢力の手先になるのに異議を唱えて転向したのが、鍋山貞親と佐野学である。二人は他国に指導される革命を拒否し、日本独自の路線への転換を主張した。その当時は日本共産党の幹部であっただけに、センセーショナルな出来事として、新聞にも大きく報道された▼二人が世に問うた「共同被告同志に告ぐる書」では「日本民族が一度たりとも他民族の奴隷たりし経験なく、終始、独立不羈の生活をしてきたことの意義は甚だ大きいのである」と述べるとともに、ロシアにおけるような暴力革命を批判し、「今日の発達した文化と相俟ち新時代の代表階級たる労働階級が社会主義への道を日本的に、独創的に、個性的に、且つ極めて秩序的に開拓するを可能ならしめるであろう」と訴えた。二人は国家権力の弾圧に屈したのではなく、無理難題を押し付けてくるコミンテルンに反旗を翻したのだった▼今も当時と状況が似ている。心ある日本人であれば、中国共産党や北朝鮮の金王朝の代弁者になりたくはないはずだ。我が国を混乱させようとする外国勢力に屈するか、それを拒否するかは、祖国日本を愛するか、それとも背を向けるかの違いなのである。

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新元号「令和」をきっかけに万葉集が一大ブームに!

2019年04月05日 | 歴史

私たち日本人が立ち返るべき世界があることを、新元号の「令和」は教えてくれた。典拠は万葉集巻第五の「梅花の歌。三十二首竝びに序」であるが、それに続く歌も、その序文にふさわしい作品が並んでいる▼とくに山上憶良の「春さればまづ咲く宿の梅の花、独り見つゝや、春日暮さむ」は、折口信夫によれば「この邸の梅の花は、春がくると、第一番に咲く花だ、それを自分ひとりだけ見て、永い春の日をば、楽しんでゐてもしやうがない。人と共に楽しまう」(『口譯万葉集上』)ということである▼梅の花を観賞するにも、孤独な世界に閉じこもるのではなく、「人と共に楽しもう」ということで、喜びが二倍にも三倍にもなるのである。葛井大夫の「梅の花今盛りなり。思ふどち插頭(カザシ)にしてむ。今盛りなり」という歌にしても、「仲よし同士、頭にさして遊ばうよ。今眞盛りである」(『口譯万葉集上』)ということなのであり、かつての日本人には、共通のベースがあったのだ▼「令和」については、国民の圧倒的多数が評価しており、万葉集が一大ブームになりつつある。歌の中心は飛鳥浄御原宮から聖武天皇の奈良京であり、保田與重郎は「壬申の乱と、奈良京定着まへの席暖まる暇もない都遷りといふ変動期に、この最も美しい詩歌の集はその大半がつくられてゐた」(『日本の文學史』)と書いている。我が国は今激動の時代の只中にある。それだけになおさら、「令和」の御代の日本人に必要なのは、万葉集の美しい調べに感動する心なのである。

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「令月」と「風和やかに」の言葉こそが万葉集の精神だ!

2019年04月04日 | 歴史

我が民族の原点は万葉集である。今回の新元号はそれを思い出させるきっかけになった。「令和」の典拠は、万葉集巻第五の「梅花の歌。三十二首竝びに序」であった。大伴旅人の手になる「天平二年正月十三日、帥老の宅に萃(アツマ)り、宴曾を申(ノ)べつ。時に初春の令月(ユキツキ)にして、氣淑(キヨ)く風和やかに」の「令月」と「風和やかに」の「令」と「和」を結び付けたのである▼解釈すれば「大宰府の長官のもとに集まって宴会を開いた。めでたい月ということもあって、居合わせた人びとも穏やかで、気持ちが通じ合っている」ということだろう。グローバリズムに抗するには、日本人の一体感がどこにあるか再確認しなくてはならず、時宜を得た言葉である▼日本浪漫派の保田與重郎は『日本文學史』において「万葉集の成立に、意企や野心がなく、ただ自然がこの無比の文學をつくったということは、そのころのわが遠祖たちがすなおに信じたことばでいえば、神随(カムナガラ)、神の自然の性、人の思いや人の意志というものではなく、自然、神の性を見きはめて、それに従ったのである。こういう理想の状態によってつくられたのだ、しかし作った人はそういうものを志とした」と書いている。保田が心打たれたのは「一つの変革期に対応する人の志」であり、個々の人間の欲望や党派を超越した精神であった。だからこそ「令月」と「風和やかに」の境地に達したのである。

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「226」で野中大尉を演じた萩原健一さんの死を悼む!

2019年03月29日 | 歴史

萩原健一さんが去る26日に都内の病院で亡くなった。萩原さんはザ・テンプターズのボーカルとしてデビュー。「傷だらけの天使」などで個性的な演技をした役者であったが、もっとも衝撃的であったのは、1989年発売の映画「2・26」で、野中四郎を演じたことだ▼野中は昭和11年の2・26事件の首謀者であり、現役の陸軍歩兵大尉であった。急進的な青年将校として知られていたわけではなく、最年長であったために、蹶起趣意書に唯一名前を書いた。2月28日にピストルで自決したのは、責任を痛感したからだろう。妻宛てに遺書を残しているが、そこでは自らの行動を「万死ニ値ス」と書くとともに、「貴女ハ過分無上ノ妻デシタ 然ルニ此ノ仕末御怒リ御尤モデス 何トモ申シ訳アリマセン」と詫びたのだった▼野中は自分よりも若い者たちが立ち上がったのを、見捨てることができなかったのである。野中は歩兵第3連隊第7中隊長であったために、約400名の蹶起部隊を率いて警視庁に陣取った。皇居を占拠する計画があったともいわれるが、最終的には野中は思いとどまったのである。首謀者として死を選択するしかなかった野中の葛藤を、萩原さんは見事に演じ切ったのである。彼がこの世を去ったことで、色々なコメントが出ているが、野中四郎に扮した俳優萩原健一の名演技も忘れるべきではないだろう。

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「人間宣言」も憲法と同じように米国が押し付けたものだ!

2019年03月04日 | 歴史

昭和天皇が「人間宣言」をされたのは、昭和21年正月元旦のことであった。これもまた憲法と同じように、米国に押し付けられたことを忘れてはならない▼昭和天皇は「五箇条の御誓文」から説き起こされ、「朕(ちん)は茲(ここ)に、誓を新たにして、国運を開かんとす。須(すべか)らく此の御趣旨に則り、旧来の陋習(ろうしゅう)を去り、民意を暢達(ちょうたつ)し、官民挙げて平和主義に徹し、教養豊かに文化を築き、以て国民の向上を図り、新日本を建設すべし」との思いを語られてから、「人間宣言」と評されることになった一文を御述べになられたのである▼「朕と爾等(なんじら)国民との紐帯(ちゅうたい)は、終始相互の信頼と敬愛に依りて結ばれ、単なる神話と伝説に依りて生ぜるものに非ず、天皇を以て現御神とし、且日本国民を以て他の民族に優越する民族にして、延て世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基くものに非ず」▼我が民族の建国の歴史について、他国が口出しすべきではなく、日本人が一度として、世界を支配する野望を抱いたことなどなく、大東亜戦争に突入したのは、追い詰められた末の苦渋の決断であった。連合国総司令部の民間情報局に勤務していた米国陸軍のハロルド・G・ヘンダーソン中佐が原案を書いたことは明らかで、それに前田多聞文部大臣、弊原喜重郎首相が苦心惨憺して手を加えたのだ。占領下にあった日本は、それに異議を差しはさむことなど許されなかったのである。

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大御心に楯突くことができなかった二・二六の青年将校!

2019年02月26日 | 歴史

昭和11年2月26日から29日まで帝都を震撼させたのが二・二六事件である。歩兵第一、第三連隊、近衛歩兵第三連隊の約1400名が首相官邸や警視庁などを襲撃し、高橋是清大蔵大臣、斎藤実内大臣、渡辺錠太郎教育総監らを殺害した。青年将校の決起が失敗に終わったのは、大御心に楯突くことができなかったからである▼決起部隊のうちもっとも強力であったのは、野中四郎大尉の歩兵第三連隊であった。下士官兵約500で構成されており、重機関銃八、軽機関銃十数挺をもっており、警視庁特別警備隊も手が出せなかった▼野中隊と連絡をとっていたのが、近衛歩兵第三連隊第七中隊の中橋基明中尉であった。下士官兵約120名のうちの60余名は高橋蔵相を暗殺してから首相官邸に向かった。それ以外の者は中橋中尉とともに半蔵門に入り、守衛司令部に坂下門の警備を願い出て認められた。中橋中尉自身が警視庁の屋上の野中隊と手旗信号でやり取りしているのを不審がられ、守衛司令部に一時軟禁され、押し問答の末脱出して一人で宮城外に出たのである▼中橋中尉らがあくまでも宮城内にとどまり、参内してくる重臣を追い払い、野中隊を引き入れて宮城を占拠してしまえば、情勢は一変していたに違いない。村上一郎は『北一輝論』で「なぜ天皇制を逆手にとって革命をやろうとするならこの計画こそもっと綿密に、かつ力を入れてやらなかったのか」と悔しがった。そこまで決断できなかったのは、あくまでも大御心に添うべきとの思いが、青年将校にあったからなのである。

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今こそ保守はまともな日本通史を世に出すべきだ!

2018年12月06日 | 歴史

保守派のネット民すらも、百田尚樹氏の『日本国紀』には批判的なコメントをしている。次々とウィキペディアの引用が暴かれ、何を参考文献にしていたかも明らかになりつつある。鳴り物入りで宣伝していたくせに、百田氏も有本香氏もここにきて虎ノ門ニュースでもまったく触れようとしない。ネットでの反応は芳しくなく、かえってテレビが報道しないことで救われているのだから、あまりにも皮肉である▼保守こそが歴史に学ぶのであり、だからこそ高名な学者を世に送り出してきたのだ。期待していただけに、あまりの酷さに怒りを抑え切れない。今の保守はやった者勝ちというところがあり、自虐史観を批判すれば、それだけで名前が知られることとなった▼坂本多加雄レベルの学者がいなければ、左翼陣営から突っ込まれるのは目に見えていた。百田氏が一端の作家である限り、自分の文章に落とし込むことができると信じたのは、あまりにもうかつであった。もう根拠なく持ち上げるのは止めよう。『日本国紀』についての多くの批判は的を射ている。保守派は陣営を整えなくてはならない。まともな日本の通史を世に出さなくてはならない。それに時間がかかってもいい。日本を築き上げた先人の記録を、様々な資料に基づいて書き上げるのである。『日本国紀』を無理に擁護し持ち上げる必要はないのである。

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日本を取り戻すために百田尚樹氏の『日本国紀』を読もう!

2018年10月25日 | 歴史

百田尚樹氏の『日本国紀』が発売前から大変な話題になり、予約も25万部を突破したという。日本国民は保守の言論を待望しており、そこに今回の本が出るからだろう。日本の通史を書くというのは、膨大な資料を読みこなす力がなければ、まずは不可能である。それが百田氏にはあるから、あえて挑戦をしたのだろう▼その点からしても、注目したいのは参考文献である。徳富蘇峰、平泉澄、伊藤隆といった歴史家、大川周明、林房雄、竹山道雄といった思想家や作家の本を、どこまで読み込んだかである。教条的なマルクス主義の講座派や労農派を一刀両断にするにしても、その刀の切れ味に関係するからである▼百田氏は、日本の現状を憂うるあまり、一気呵成に書き上げたのだと思う。枝葉末節の間違いや誤字誤植は、当然のごとく大目に見てやるべきだろう。今多くの日本国民にファストレーションがたまっている。そこに今回の『日本国紀』は言葉を与えることになるだろう。ベストセラー作家である百田氏の書く本は、読みやすさにかけては定評がある。日本国民が忘れてしまっていた歴史を、まずは取り戻すきっかけになるだろう▼教科書にも影響を与えることになるに違いない。日本という国家の過去を否定することだけを教えるのは、あまりにも偏向した見方である。日本を取り戻すためにも、戦後長きにわたって抹殺された歴史を、もう一度思い起こさなくてはならない。その先陣を切るのが百田氏なのである。

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百田氏の『日本国紀』は平成の『太平記』『日本外史』だ!

2018年10月21日 | 歴史

百田尚樹氏の『日本国紀』が発売前からアマゾンランキングでトップを走っている。今の日本人は祖国を取り戻そうとしており、時流に合う本が出れば、それに飛び付くのはあたりまえである。歴史家が苦労して書き上げる通史を、短期間で仕上げてしまうのはジャーナリストだからだろう▼実際に読んだわけではないので断言はできないが、大川周明の『日本二千六百年史』、平泉渉の『物語日本史』あたりを参考文献に使っているのではないか。ほぼ一人でやり遂げたのだから、多少の間違いがあっても恥じるべきではない。重箱の隅を突くように必死になって探すアカデミズムの学者もいるだろうが、相手になどする必要はなく、枝葉末節はどうでもいい▼忠臣楠木正成を世に出したのは『太平記』であり、徳川幕府を倒す火を付けたのは頼山陽の『日本外史』であった。百田氏の『日本国紀』がどこまでの影響力を持つかは分からないが、多くの日本人がその本を渇望していることだけは確かである。残念でならないのは、歴史家の坂本多加雄がこの世にいないことだ。坂本ありせば、より完璧な歴史書になっただろう▼感想を述べるのは読んでからだが、若い人が日本の歴史に興味を持つきっかけになるだろう。それだけでも大変なことである。襤褸くそに貶さることを承知で、祖国日本への思いの丈を綴った百田氏の勇気に敬意を表したい。

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リアリストに徹しきれず永遠の維新に殉じた西郷隆盛!

2018年09月25日 | 歴史

私はNHKの大河ドラマ『西郷どん』を一度も見たことがない。会津人だから西郷が嫌いというのではない。そもそもテレビを見ないだけなのである。西郷隆盛に興味がないわけではない。『南洲遺訓』はあくまでも他人が書き残したものであって、それよりは政治的なリアリストでありながら、最期は革命のロマンに殉じた西郷に興味がある▼幕府を倒すためには手段を選ばなかったのが西郷であった。徳川慶喜が大政奉還をして、幕府も含めて天皇国家を建設しようとする気運がめぐってきたときには、あえて江戸において放火、掠奪を行って挑発をした。幕府はその挑発に乗って、江戸の薩摩藩邸を焼き打ちして、鳥羽伏見への出兵することになったのだ。新しい時代の幕を開けるには、それしか手がないことを西郷は熟知していたのである▼青地晨は『反逆者』に収録された「西郷隆盛・うしろ向きの叛逆」において、「彼は封建的な徳川幕府の叛逆者であったが、まもなく開明的な明治政府の叛逆者となった」と決めつけて、征韓論に敗れて故山に帰ってからの西郷を、反動勢力に加担したとみる。しかしそれは一方的な見方でしかない。明治維新を実現した立役者の西郷が、永遠の維新を目指したのは、権力は腐敗し、理想は裏切られるということを、身をもって痛感したからだろう。リアリストに徹しきれなかったからこそ、西郷星という伝説さえ生まれ、民衆から敬愛されることになったのである。

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