わび居なる会津にありて年ごとに鬢の白さが増していくかな
国憂うおもいもありて酒を酌み昭和維新の歌い初めかな
初春の磐梯の嶺仰ぎたりしゃっこい風に身をまかせつつ
先祖神畏れを抱く民ありて鎮守の森は賑わっており
人の世のはかなさ辛さ朽ち果てぬ墳墓の地なり会津の山河
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わび居なる会津にありて年ごとに鬢の白さが増していくかな
国憂うおもいもありて酒を酌み昭和維新の歌い初めかな
初春の磐梯の嶺仰ぎたりしゃっこい風に身をまかせつつ
先祖神畏れを抱く民ありて鎮守の森は賑わっており
人の世のはかなさ辛さ朽ち果てぬ墳墓の地なり会津の山河
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新年の幕開け早々、菅直人首相は年頭所感を発表し、そのなかで「平成の開国」という言葉を用いて、国際化を推し進めることを明言した。昨年の失敗に懲りることなく、またまた寝言を語っているのである。しかも、許せないのは、明治の開国、戦後の開国に匹敵する改革を断行すると、大見得を切っていることだ。戦後の開国というのは、サヨクが勝手にそう呼んでいるだけで、実際は日本弱体化そのものであった。それを理解しない軽はずみな発言ではなかろうか。その後遺症のために、今なお日本は国家たりえないのである。さらに、サヨク史観とアメリカ流の市場原理主義にもとづく「平成の開国」を行えば、かえって亡国の運命をたどることになるだろう。とくに警戒すべきは、野放図に国を開くことで、日本の国のかたちが、メチャクチャになることだ。葦津珍彦は、過去の日本の歴史を思い起こしながら、「日本国への忠と天皇への忠とは、まったく同一であって別物とは考えられなかった」(『近代民主主義の終末』)と書いている。天皇というのは、私心を持たない存在であられるのであり、国家としてのまとまりは、天皇を抜きには考えられないのである。その国柄を死守できるかどうかが、今年もまた、保守・民族派にとって問われることになるのである。
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