『日本民族派の運動』の口絵を飾っていた影山正治の写真を見て、天晴れなもののふの気概が伝わってきた。しかも、影山が写った三枚のうちの二枚までは、日本浪漫派の保田與重郎と一緒であった。また、私が手にしたのが贈呈本であったせいもあって、影山正治という自筆の署名がしたためてあった。字の形が重厚で、どっしりとした感じがした。たっぷり墨を付けて、一気呵成に書き上げたのだろう。パトスが勢いとなって迸っていた。さらに、その本の付録には、保田との対談が五編も収録されていた。保田の純粋な魂に惚れこんでいたからだろう。その対談のやり取りのなかで、一番興味深かったのは、保田が転向者であったかどうかという問題だ。影山がそれとなく話題にすると、保田は「そりやー違ふ」と軽くあしらった。民族派の活動家として影山は、真意のほどを確かめたかったに違いない。揺るがない信念があったためか、影山の最期もまた立派であった。元号法制化の実現を訴える手段として、命を捧げたのだった。昭和54年5月25日のことであった。新しい年を迎えて、高杉晋作のような面長な影山と、少年のような瞳を失うことがなかった保田の二人のことを、ついつい考えてしまう。日本の保守・民族派としての血脈を無視すべきではないからだ。
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