草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

影山正治と保田與重郎の日本浪漫派の心

2011年01月07日 | 思想家

 『日本民族派の運動』の口絵を飾っていた影山正治の写真を見て、天晴れなもののふの気概が伝わってきた。しかも、影山が写った三枚のうちの二枚までは、日本浪漫派の保田與重郎と一緒であった。また、私が手にしたのが贈呈本であったせいもあって、影山正治という自筆の署名がしたためてあった。字の形が重厚で、どっしりとした感じがした。たっぷり墨を付けて、一気呵成に書き上げたのだろう。パトスが勢いとなって迸っていた。さらに、その本の付録には、保田との対談が五編も収録されていた。保田の純粋な魂に惚れこんでいたからだろう。その対談のやり取りのなかで、一番興味深かったのは、保田が転向者であったかどうかという問題だ。影山がそれとなく話題にすると、保田は「そりやー違ふ」と軽くあしらった。民族派の活動家として影山は、真意のほどを確かめたかったに違いない。揺るがない信念があったためか、影山の最期もまた立派であった。元号法制化の実現を訴える手段として、命を捧げたのだった。昭和54年5月25日のことであった。新しい年を迎えて、高杉晋作のような面長な影山と、少年のような瞳を失うことがなかった保田の二人のことを、ついつい考えてしまう。日本の保守・民族派としての血脈を無視すべきではないからだ。  

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信念と責任感のどちらもないのが菅首相だ!

2011年01月07日 | 思想家

 菅直人首相の評判が悪いのは、信念と責任感がないからである。あまりにも口から出まかせの発言ばかりなので、国民は不信感を抱いてしまうのだ。厄病神のように思われているのだから、もはや救いようがない。テレビ朝日のニュースステーションに出演しても、国民はもはや聞く耳を持たないし、顔も見たくないのである。さりとて、小沢一郎を待望しているわけではない。次の首相候補と目される人材も党内にはおらず、民主党自体が相手にされなくなっているのだ。それでいて、千谷由人官房長官のように、高圧的な態度をとるのは、スターリニスト的な政治手法そのものである。お目出度いのは、自分が嫌われている理由を、菅首相が知らないことだ。森嶋通夫は『政治家の条件』で、マックス・ウエーバーの「信念倫理」と「責任倫理」の違いについて述べている。「信念倫理」とは、一般的に「心情倫理」と訳されているが、善悪の信念にもとづいて行動するということだ。これに対して、「責任倫理」は結果が全てなのであり、当然のごとく責任感が求められる。ウエーバーは両方必要だと言っているが、どちらもないのが菅首相なのである。  

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