草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

人民の権利を固守すべしの玄洋社精神が保守派の原点

2011年01月19日 | 思想家

 日本の保守派の原点にあるのは、天皇絶対であると同時に、国権、民権の思想である。葦津珍彦が『大アジア主義と頭山満』のなかで、頭山満に板垣退助が民権の大切さを説いた、というエピソードを紹介している。大久保利通が暗殺されたのは、明治11年5月14日のことであったが、福岡でその報に接した頭山は、すぐに土佐に板垣を訪ねた。そのときに板垣は、まだ無名の青年であった頭山に向かって、懇々と語って聞かせたのだった。会津藩の落城が近いと思われていた時期に、一門の者を集めて、懸命に食糧を城中に運び入れている百姓がいた。それを目のあたりにした板垣は、その百姓の義心に感激した。そして、「すべての国民が、百姓でも町人でもたれでも、会津の百姓某のような心がけにならねばならない」との考えを抱くようになったというのだ。板垣は会津戦争の体験談を披露したわけだが、民衆の側に立った立憲政治を行えば、民衆もまたそれに応えてくれるのである。日本の右翼の源流である玄洋社のリーダーも、その根本にあったのは、民権思想なのである。だからこそ、玄洋社憲則は「一条皇室を敬戴すべし、第二条本国を愛重すべし、第三条人民の権利を固守すべし」からなっていたように、日本の国柄は、天皇絶対、国権、民権の思想が 三本の柱なのである。 

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「論語」の精神に反する露骨な侵略主義の中共

2011年01月19日 | 思想家

 高橋和己の評論「順逆不二の論理―北一輝」は新鮮であったが、彼もまた戦後民主主義の落とし子であった。社会主義的な考え方から出発した北一輝が、どうしてアジアへ向かったかというアポリアから、一歩も先に進めなかった。しかし、北一輝の信念は一貫していた。日本を変革するにはまず中国革命だと信じて、一旦はその渦中に身を投じたが、その夢がかなわず、失意のうちに帰国したのである。そして、昭和11年の2・26事件に関与したとして、処刑されてしまったのだ。その意味でも、中国へのコミットは、侵略を肯定することではなかった。だからこそ、かつての中国の革命家譚人鳳の孫を、実の子として面倒を見たのである。ところがどうだろう、現在の中共こそ、「寡なきを患えずして、均しからざるを患う」という論語の精神に反しているのではないか。高橋和己が解説しているように、「国家の人的、物的な資源のとぼしさを他国の征服による領土拡張によっておぎなおうとするのは誤っている。国内の富の分配が均等でないからこそ、人々は貧しく、国家は危機的様相を示すのである」という意味だとすれば、それに一番該当するのは、中共ではなかろうか。日本の固有の領土である尖閣列島を領有しようとしているばかりか、沖縄にまで食指を動かしており、論語とは全く無縁な侵略国家であるからだ。

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