草莽隊日記

混濁の世を憂いて一言

玉城知事の発言や行動は中国を利するだけだ

2023年09月30日 | 安全保障
 昨日付の八重山日報のネットにアップされた記事は衝撃的であった。見出しは「『琉球独立』のトピック急増中国検索サイト、知事演説後」というものであった。
 玉城デニー知事が国連人権理事会に出席して行った演説のせいで、中国の検索サイト「百度百科」で「琉球独立」の関連する話題が頻繁にヒットするようになっている。中国共産党が裏で日本と沖縄との分断工作を行っている可能性が高いという。
「はいさい、ぐすーよ」という沖縄方言のあいさつで演説を開始したことについても、「琉球独立を宣言した」といった書き方をしている。
 そうでなくても、台湾有事の際には、沖縄が戦争に巻き込まれる危険性がある。中国が「琉球独立を手助けする」という大義名分を掲げれば、それこそ、一般社団法人日本沖縄政策研究フォーラム理事長の仲村覚氏が指摘するように「台湾統一戦争」が「台湾・琉球統一戦争」の発展する可能性すらあるのだ。
 玉城デニー知事は、中国が沖縄を侵略する口実を与えたと同じなのである。まさしく「外患誘致」そのものではないだろうか。情報戦において、中国は次々と手を打ってきている。
 我が国の保守陣営が争っているときではない。一致団結して事にあたるべきときに、私利私欲で罵倒するなどというのは、かの国を利するだけなのである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高市さんがトップに立たなければ自民党は崩壊する

2023年09月29日 | 政局
 自民党が政権を維持するには右に振れるしかない。リベラルの次には保守ということでないと、右から左までの大所帯の自民党は持たないのである。
 岸田首相はリベラルな政策の最たるLGBT法案を自分の手で行った。それでいて経済政策や安全保障に関しては、一定の程度岸田色を打ち出したものの、米国からの圧力もあって、安倍路線を踏襲するしかなかった。
 ほぼやるだけはやったから、岸田首相は高市早苗さんにバトンタッチするのが筋である。間違っても長期政権を目指すべきではなく、台湾有事などに直面すれば、一番困るのは岸田首相であることを、本人も自覚しているのではないだろうか。
 もちろん、高市首相が誕生しても、せいぜい2、3年だろう。深刻な危機に直面すれば、その期間だけでも全力投球をすれば、へとへとになってしまうからだ。
 自民党の派閥の領袖は高市後を狙えばいいのである。平和な時代になれば、雰囲気がガラリと変わってくるからだ。非常時の日本の政治のトップは、保守政治家しか担えないのである。
 まずは高市さんを全力で支えるべきだろう。政策一辺倒で派閥の力学とは無縁な方が、自民党の国会議員にとってもやりやすいからである。
 永田町の評論家の多くは自民党内の派閥の動きしか見ていない。それよりも国民のどう考えているかをリサーチすべきだろう。日本保守党や参政党を支持する人たちであっても、高市さんが自民党の顔になれば話が違うのである。
 そんなことは誰もが知っているはずなのに、それを口にしないというのは、日本が直面しつつある危機の深刻さを理解していないからだろう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

保守主義を定義するには「心グループ」を無視できない

2023年09月28日 | 思想家
 自称保守を名乗る争いがあまりにも皮相的である。そこには思想家の名前は一つも出てこず、保守についても定義に関してもいい加減である。ジャーナリストや流行作家のレベルで騒ぐ神経が理解できない。
 橋川文三は「自らを保守を標榜する思想家が日本にはいなかったか、ないしは稀であった」(「日本保守主義の体験と思想」)と書いている。そして、保守主義の概念には「未知なものへの恐れや忌避の感情を呼ぶ場合」と「一定の歴史的段階において発達するに至った特定の政治思想を指す場合」と二つに区分している。
 保守主義を問題にするにあたっては、あくまでも後者が問題となる。しかも、「保守」ということばそのものが、「保守反動」を連想させるような使い方をされてきたのである。だからこそ、丸山眞男は「日本に保守主義が知的及ぶ政治的伝統としてほとんど根づかなかったことが、一方進イズム>の風びに比して進歩勢力の弱さ、他方保守主義なき<保守>勢力の根強さという逆説を生む一因となしている」(「反動の概念」)と喝破した。自由民主党があえて保守党を名乗らなかったのは、そうした理由があったからなのである。
 私たちが保守主義を理解するためには、現代の保守思想の中核をなす「心グループ」の人たちの思想に触れなくてはならない。代表的なメンバーは和辻哲郎、田中耕太郎、武者小路実篤、小泉信三、柳田国男らである。そこに橋川は進歩派を寄せ付けなかった葦津珍彦の名前も付け加える。このほか、新保守主義には日本文化会議の林健太郎、竹山道雄、田中美知太郎、竹山道雄、福田恆存らがいた。
 それらの人たちの本を全て読む必要はないが、その何冊かを最低読んで、それで保守主義について議論すべきなのである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本保守党に期待していいのだろうか

2023年09月27日 | 祖国日本を救う運動
 昨夜のアベマに出演した百田氏や有本氏の発言を聞いていて、ガッカリしたのは僕だけであろうか。佐々木俊尚氏が日本保守党の立ち位置を「極右」や「右派政党」と決めつけたことに、有本氏などは色をなして反論したが、なぜそんなことで怒る必要があるのだろう。
 今の自民党は国民政党を名乗っている。思想的には右から左までいる。これに対して、日本保守党はLGBT法や移民政策などで、明らかに右側の意見を代弁している、そうであれば、そんなレッテル貼りに屈することなく、自分たちの正しさを訴えればいいのである。
 フランスやイタリア、さらにはドイツでも極右政党が躍進しており、恐れるに足らずなのである。三島由紀夫が語ったように、戦後の日本の右翼は「ナショナリズム」「反体制」「反資本主義」の三つを失ってしまった。米国によって手足を縛られてしまった我が国においては、それを主張することは異端であり、危険な分子であるが、それに臆してはならないのである。
 穏便な保守を自称するのであれば、自民党の保守派を応援するだけでいいのである。「移民政策」で自民党との違いを打ち出せば「排外主義者」と批判されかねないが、それでも持論を貫くことで、一定の支持者を獲得できるのである。
 百田氏が「移民政策に反対しているのではない。どのようにして、どのくらい受け入れるかの制度設計ができていないのが問題だ」と述べていた。その位のことであれば、自分たちが提案をすればいいのである。
 日本の右翼の歴史に一ページを付け加えたのに、桜井誠氏の行動する保守運動がある。彼らは攘夷論的な街宣活動を行った。それまでの右翼は、大アジア主義者が中心であった。先の戦争についても悔いていた。同じアジアの同胞と殺し合った過去を反省したのだ。児玉誉士夫の「民族の歌」の歌詞でもそのことに触れている。しかし、それと袂を分かったのが行動する保守運動なのである。
 百田氏と有本氏は、自民党とも行動する保守運動とも、戦前からの右翼とも違うのであれば、そのスタンスを明確にしなくてはならない。先の戦争によってアジアアフリカの国々が独立をする引き金になったというのを、百田氏が強調したいのであれば、それこそ京都学派が唱えた大東亜共栄圏構想の意義に関しても触れるべきだろう。それはアジアは一つということである。東アジアにおいて国家の壁を低くすることでもあった。
 自民党のような総合デパートでは物足りないのであれば、日本保守党は専門店にならなくてはならない。政治家はくどくど説明しなくていい。単刀直入にスローガン化すればいいのである。昨夜のような話し方では駄目である。日本保守党が何をしたいのかを一言二言で語るべきなのである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

例外状況を想定していない憲法では日本を守り抜くことは困難だ

2023年09月26日 | 祖国日本を救う運動
 カール・シュミットの『政治神学』(田中浩/原田武雄訳)の冒頭の言葉は衝撃的である。「主権者とは、例外状況にかんして決定をくだす者をいう」と書いてあるからだ。
 米国から押し付けられた我が国の現憲法においては、例外状況はまったく想定されていないのである。もし他国から侵略された場合に、それを例外状況と認定する「主権者」によって「原理的に無制限の権限がすなわち現行秩序の停止」ということが決断されなくてはならないが、それすらも難しいのである。
 現憲法でなく、大日本帝国憲法にはそれがあった。天皇の名のもとにおいて、戒厳令を布告することができたからだ。天皇の下に結束し、国家の存立を断固として守り抜く覚悟があったのだ。だからこそ、北一輝はそれを逆手に取って昭和維新を断行しようとしたのだ。
 シュミットを論じる日本の学者は、何を恐れてか北一輝の名前を出したがらない。それでいて小賢しい議論に明け暮れている。シュミット流の決断主義があればこそ、北一輝が直接タッチしていなくても、2・26事件の将校を決起させることができたのである。最終的には「大御心」に待つにしても、「主権者」としての天皇の判断を仰ぐということまでは、当初の目的はかなえられたのである。
 しかし、第9条2項によって交戦権が否定されているのだ。国家の存亡がかかる例外状況に対処できないのである。国際法によって容認されているとはいえ、それで自衛隊を保有するというのは明らかに憲法違反である。
 日本が他国から攻撃された場合に、交戦権なき自衛隊がどう対処するのだろう。岸田首相が宣戦布告をすることができるのだろうか。すでに自衛隊は米軍の一部に組み込まれており、その命令によって動くのではないだろうか。
 つまり、現状のままでは、例外状況における決定権を持つのは米軍なのである。かつて天皇に与えられていた統帥権なるものは、米軍に移行してしまっているのだ。
 こんな状態で本当に自衛隊は、日本国民の命を守れるのだろうか。警察の延長のようなことしかできない軍隊が、まともに侵略者と戦うことができるのだろうか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

死者の眼差しを意識するのが日本の保守主義だ

2023年09月25日 | 祖国日本を救う運動
 保守主義はイデオロギーではないが、日本人の土俗的な信仰に立脚することだけは確かである。教義や経典があるわけではないが、日本人に中に脈打っている懐かしい信仰心なのである。小高い丘に死者が立って、子孫の暮らしぶりを見守っているという柳田国男の見方は、それなりの根拠があるのだ。
 柳田に「家永続の願い」(『明治大正史世相篇(下)』)という一文がある。死者の葬り方が昔は現在とは違っていた。それこそ最近話題の樹木葬と大差がなかったのである。
「祖先の記念は今の人が想像しているように、文字に刻んだ冷たい石の塔ではなかった。亡骸(なきがら)はやがて朽ちゆくものとして、遠く人亡き浜や谷の奥に隠して、これを自然の懐に返していたのである。喪屋(もや)の幾日かの悲しい生活を終わって還ると、字を知らぬ人たちはただその辺の樹木の枝ぶりや、自然の岩石の形によってその場所を覚え、時折りの花をささげ涙を流しに行ったが、それがだんだんんい移り変わって行くとともに、末には忘れられてしまうのが当たり前のこととなっていた」
 石碑というものが常人のために作るようになったのは、せいぜい300年前くらいのことなのである。死者を遠い荒野や寂しい山に捨てたがゆえに、かえってその魂が生きている者と同じく、生者に寄り添うとの信仰心が生まれたのではないだろうか。
 先祖の死者の眼差しに耐えるためには、人間として何を為すべきか。それが日本人の土俗的信仰の根本にあったし、それは今日でも変わらないのではないだろうか。
 この世は生者だけで成り立っているのではなく、今を声を上げることができない者たちの、声なき声に耳を傾けることで、死者との絆を絶えず確認するのが日本本来の保守主義なのである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

危機の時代なのに保守同士が今は争っているときではない

2023年09月24日 | 祖国日本を救う運動
 LGBT法案をゴリ押しした岸田内閣にノーを突き付けたいがために、百田尚樹氏と有本香氏が日本保守党を結成するという気持ちはよく分かる。
 しかし、政治はあくまでも数である。このために多数派を形成する努力を怠ってはならない。作家やジャーナリストとして朝8などで自由に物を言うのとは、そもそも違うのである。
 当初は岩盤保守からの支持を一定程度取り付けると思われたが、それなりの理解を示してくれたユーチューバーとの間でも、反目が生じたりしている。
 百田氏が自らを「保守ではない」と言ったツイートや、有本氏が上野千鶴子氏と同じように「夫婦別姓」を口にした動画がネット上にアップされており、反日本保守党の方もエスカレートしてきている。
 百田氏や有本氏は、ツイッターなどで、フォロワーが助言やなどをすると、上から目線で馬鹿にしたような言い方をする。それが誤解を招いて、こんなことになってしまったのである。
 さらに、橋下徹氏や上海電力を問題視しながら、中途半端に終わってしまっている。
 物の考え方が変るというのは、誰にもあることで、それを批判すべきではないが、あまりにも攻撃的な言動が目に余る場合には、逆に自分が攻撃される立場になってしまうのである。
 保守が憎しみ合うのはもみっともない。感情的になって敵をつくるというのは、左翼の特有の運動論であり、保守には馴染まないのである。
 岩盤保守として心がけるべきは、冷静な議論に徹するということである。迫りくる台湾有事などに備えて、今は日本国民が一致団結するときである。かの国に隙を与えてはならないのである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本の選択肢は核保有か中国に屈服するか二つしかない

2023年09月23日 | 祖国日本を救う運動
 米国の核の傘が意味がないというのを知りながら、どうして日本人は平静でいられるのだろうか。習近平が核ミサイルで恫喝してきたら、米国は尻尾を撒いて逃げだすだろう。核以外の武器だけは支援してくれるかも知れないが、当事者になることは避けるだろう。
 我が国はウクライナの二の舞になりかねないのだ。核爆弾を2発も落とされながら、3発目に落とされかねないのに、国家として身構えないのは異常である。
 米国から最新式の武器を買わされても、それが役に立つかどうか問題である。それよりは戦術核ミサイルを搭載した原子力潜水艦を何隻か保有して、海底深く沈めておいた方が、はるかに効果的だし、コストパフォーマンスにもかなっている。
 やられたら反撃するということで、それで十分なのである。米国から購入した兵器は、米国の意に反すれば使用できなくなる。そんな代物に莫大な資金を投じることは、まったくの無駄遣いである。
 米国が日本が普通の国家になることを認めないのであれば、日本は自立する以外に選択肢はないのである。バイデンの対中政策も、岸田首相と同じく心もとない。裏では習近平と握手しかねないのである。
 岸田首相は「核なき世界」を訴えて、米国を安心させた。しかし、それは戦争を誘発し日本国民に死を強いることにもなるのだ。賢明な政治指導者であれば、ここは決断すべきときなのである。それが難しければ、中国に屈服してウイグルやチベットの人たちと同じ運命を甘受するしかないのである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岸田首相の「核なき世界」は平和ボケの典型だ

2023年09月22日 | 安全保障
 愚かな船長によって、日本丸はとんでもない暗礁に乗り上げてしまった、今や沈没寸前である。しかし、船長自身ははそのことに気づいていないのである。
 岸田首相は去る19日に国連総会で演説し、持論の「核なき世界」を訴え、その研究費に30億円を出すことを表明した。しかし、お花畑の妄想をいくら語っても、国際社会は関心を示さなかった。会場は空席が目立ち、各国の国連大使などは、ほとんど姿を見せなかった。
 LGBT法案をゴリ押ししたのも、「核なき世界」をスローガンとした広島サミットへの米国の協力を得るためであった。それによって、国際社会からから絶賛されると、岸田首相は勘違いしたのである。
 このために安倍元首相が主張した、米国との核の共有の議論をすることさえ、岸田首相は認めなかったのである。目前に迫った台湾有事を阻止するためには、非核保有国としては、独自に核武装をするか、核の共有しか選択肢はないのに、愚かにも自らの手足を縛ってしまったのである。
 岸田首相は戦後レジームを容認するような政治家である。マスコミに迎合し、日本国民の命を守るために現実を直視しない空想家なのである。
 マックス・ヴェーバーの「政治は、情熱と観察力とを併せ持ちつつ、堅い板を力を込めて徐々に穿っていくことを意味する」(『職業としての政治』清水幾太郎訳)という言葉を知らないのだろう。心情倫理は無視できないとしても、そこには確固とした責任倫理がなければならないのである。平和ボケした観念論者に日本国を舵取りを続けさせてはならないのである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

暗記だけの歴史教育では国家観は育まれない

2023年09月21日 | 祖国日本を救う運動
 保守思想家として現存しているのは、西尾幹二や長谷川三千子の二人位である。ニーチェ研究者でもある西尾には『地図のない時代 反時流的考察』というのがある。
 そこでルソーの『エミール』を引用しながら、歴史教育の危険性を指摘していた。西尾は「歴史という学科は日本の生徒にはいつも入試のための暗記物でしかないのだが、そのために、歴史は事実のかき集めだという間違った観念を子供に与えてしまう。歴史を教えるなら、むしろ昔の偉人の話をきかせるのがいい。困難な時代を過去の人がどう生きたかという心を伝えるのが歴史であって、〇×式テストは歴史という科目には一番ふさわしくないのだが、現代日本ではこれが普通になっている」と書いている。
 受験エリートが駄目なのは、歴史の中に、人間の秘めたるドラマを見ようとしないことだ。それは単なる知識の寄せ集めでしかない。知っているだけであり、生きる上での示唆を汲み取る力はないのである。知っていることと、理解することとは異なるのである。歴史を学ぶということは、先人の智恵に触れ、それを生きていくためにどう生かすかなのである。
 小林秀雄も「歴史について」で「子供が死んだという歴史上の一事件の掛け替えの無さを、母親に保証するものは、彼女の悲しみの他はあるまい。どの様な場合でも、人間の理智は,物事の掛け替えの無さというものについては、為す処を知らないからである。悲しみが深まれば深まるほど、子供の顔は明らかに見えてくる。恐らく生きていた時よりも明らかに。愛児のささやかな遺品を前にして、母親の心に、この時何事が起こるかを子細に考えれば、そういう日常の経験の裡に、歴史に関する僕等の根本の智恵を読みとるだろう」と述べている。
 よく今の政治家や官僚には国家観や歴史観がないといわれる。しかし、そうした歴史教育が行われてことへの弊害はまったく問題にされない。何をどのように学習したかで、人間のかなりの部分が形成されてしまうのである。戦後の歴史教育を否定する立場から、僕は知り合いには平泉澄の『物語日本史』(上中下)を勧めている。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする