日本で韓流ブームが起ころうとも、そんなことで目くじらを立てるつもりはさらさらないが、影響が大きい民放テレビ局が一枚噛んでいるとなると、話はまた別だ。フジテレビがあまりにも韓流に加担している、とツイッターに書いた芸能人が、所属プロダクションを首になったとすれば、とんでもないことだ。日本の保守民族派のルーツは、欧米列強からの東洋の開放を目指した大陸浪人であった。会津からも宮崎滔天と並び評された西郷四郎がおり、日本が国家として一人前になれば、その目標が達成されると考えていた。清に支配された韓国の急進的独立運動を応援したのは、政治体制を一新させることでしか、欧米列強に対抗できない、と思っていたためだ。しかし、先の大戦で敗北したことで、日本は東洋開放の旗を降ろした。理想の押し付けが、かえって無用な混乱を引き起こしたからだ。戦後の日本人は、ユーラシア半島の東に位置する島国として、日米同盟を重視し、その枠内でつつましく生きて行く道を選択した。日本国内での商業ベースでの韓流は、すぐに底が割れて両国関係を悪化させかねない。日本も韓国もそれぞれ国家である限り、まずは国益なのであり、韓流礼賛一辺倒のテレビ局を批判するのは、日本人としてあたりまえのことだ。
民主党政治家の特徴は、責任転嫁と恫喝である。昨日テレビ東京に出演し、被災地の首長を槍玉に挙げた安住淳国対委員長も、言いたい放題である。「首長は増税しないのだから(批判されにくい)。国からお金をもらって自分は言いたいことを言って、出来なかったら国のせいにする」と批判したからだ。民主党政権が何の手も打ってくれないので、住民から直接突き上げられている首長のことなど、どうでもいいような暴言である。読売新聞は「安住氏の発言は、被災地から反発を呼ぶ可能性もある」とコメントしているが、反発どころか、殴りかかりたい心境ではなかろうか。安住というのは、東北人のくせに、よくぞそんなことを言えたものだ。ほとんどの被災地は、復興が遅々として進んでいない。瓦礫処理一つにしても、自治体レベルでは限度があり、国の力に頼る以外にないのだ。与党民主党の幹部が逆ギレするようでは、箸にも棒にもかからない。今やるべきことをやらないて、人のせいにするというのは、性格があまりにも悪い。とくに、安住というのは、NHKの職員であったせいか、上から目線で物を言い過ぎだ。東日本大震災の復興予算を捻出するにあたっては、増税以外にないとしても、まずは国民に理解を求めるのが政治ではないか。今から逆ギレして国民に喧嘩を売るようでは、政治家としては最低だ。
金にもならない政治ブログを更新することについて、家族からは横槍が入るが、そこを頑張るのが国士ではなかろうか。そうは言っても、体の方は思うようではなく、病院通いの日々である。そして、神経質なこともあって、ネットで検索しては、自分を重病人に仕立て上げる。昔から「病は気から」とはよく言ったもので、すぐに気落ちするのは、鬱屈しているからだろう。しかし、それでいて、政治的なこととなると、頭に血が上ってしまう。昨日あたり、福島県や新潟県では過去に例のない豪雨になっているのに、それについてのコメントを菅直人首相がしなかった、というのを聞けば、もうそれだけで怒り心頭に達する。個人的なレベルで考えれば、政治に口出しをするのではなく、今日一日楽しく暮らすことを考えればいいのだが、そこに安住できない生意気さが、私の取り得であり欠点だ。どうせ残り少ない人生なのだから、自分に割り当てられた役をこなして、サッサと闇に消えるだけなのだが、ついつい長居をしたくなるのは、まだ私に未練があるからに違いない。その点では、伝馬町の獄で刑を待っているときにつくった、吉田松陰の辞世の歌は天晴れで、私など足元にも及ばない。
呼び出しの声まつほかに今の世に待つべき事の無かりけるかな
奥会津は驚異的な大雨によって、想像を絶する被害が出ている。南会津郡の南会津町や只見町、大沼郡の金山町や三島町では、伊南川や只見川が一部で決壊し、孤立した人たちを救おうと自衛隊が出動している。過疎地で、バブル崩壊後、建設業が次々と倒産したために、若者の姿はほとんどなく、山間地にへばりつくようにして集落が点在する。どこで地滑りが起きても不思議ではなく、救助するにも二次災害の危険性と背中合わせである。金山町地内では、只見川にかかるJR只見線の鉄橋や国道の橋が流されたといわれる。そうであれば、只見町には、ヘリコプターで空から向かうしかない。奥会津は、世界的名版画家である斎藤清の題材となった場所である。そこの山肌がえぐられ、堤防を乗り越えた濁流が集落や水田を呑み込む様は、それこそ地獄である。しかも、今助けを待っているのは、そのほとんどが高齢者である。私は故郷を離れた奥会津出身者に呼びかけたい。「すぐに助けにきてください」と。80歳を過ぎた人たちが先祖伝来の地を守っているのであり、もはや力尽きようとしている。夜になると、音一つなく真っ暗になってしまう過疎地であっても、そこにはあなたちの先祖の墓があるのだから。私も金山町に知り合いがいるので、これから手伝いに行くつもりだ。
自公政権時代の原子力関係のシンポジュウムで、経済産業省の原子力保安院がやらせ質問を要請していたことに対して、今の政権内から鬼の首を取ったかのような批判が出ているが、そんなことで揚げ足を取っているサヨクというのは、相も変わらず問題のすり替えであしかない。彼らこそ、様々な組織に仲間を潜入させて、やらせを行ってきたではないか。だからこそ、70安保騒動のときに、各大学の自治会を掌握できたのだし、連合加盟の各組合だって、組織を牛耳るためには、あらゆる手段を講じてきたではないか。さらに、良し悪しは別にして、原子力発電所の推進は、これまで国を挙げての大方針であったために、原子力保安員もチョッカイも出したのだろう。経営者は電気事業連合会、社員は電力労連に加盟し、それぞれ自民党と民主党をコントロールしてきた。建設中を含めると56基もの原発が日本に存在することになったのは、そうした背景があったからだ。今守勢に立たされている民主党政権が、そもそも居直れるわけなどないのだ。放射性物質で汚染された東日本は、このままでは人住めぬ地になろうとしているのに、責任転嫁と弁解に終始しているのだから、これでは原発事故の対応が遅れてあたりまえだ。何百万人という被曝した人たちのことなどは、まったく頭にないのだろう。
菅直人首相ばかりか、民主党政権自体がデタラメだから、総選挙で国民に信を問うしかないのである。なぜ罵倒するかと言えば、原発事故の処理があまりにもいい加減で、国民をないがしろにしているからだ。児玉龍彦東京大学先端科学技術研究センター教授 が7月27日、衆議院労働委員会で「放射線への健康への影響」ということで意見陳述をしたが、全ての日本国民はその動画をぜひ見るべきだろう。その上で民主党政権の是非を論じるべきだ。児玉は開口一番「3月15日に大変に驚愕しました」と述べるとともに、枝野幸男官房長官が「さしあたり健康に影響がない」と言ったことを批判し、「今回の福島原発事故は100キロメートル圏で5マイクロシーベルト、200キロメートル圏で0・5マイクロシーベルト。さらに足柄から静岡のお茶まで及んでいることは、今日皆さんご存知のとおりです」と原発事故の深刻さに言及した。また、児玉が属する東大アイソトープセンターが導き出した数字から「熱量からの計算ではヒロシマ原爆の29・6個分に相当が漏出、ウラン換算では20個分が漏出しています」との見方を示すと同時に、「放射線の残存量は、原爆であれば1年後に1000分の一に低下するのに、原発では10分の一程度にしかならない」と訴えたのだ。児玉が怒り心頭に達するような民主党政権を、どうして私たちが信任することができよう。
悪しき民主党政治のブレーンとして、私が思い浮かべるのは、北海道大学の山口二郎である。その特徴として挙げられるのは、ナショナリズムに批判的なことだ。ナショナリズムを危険視して、それが燃え盛るようであれば、少数派の声がかき消される、とまで危険視する。だからこそ、国旗や国家に対しても異議を唱える。世界が今なお暴力の海であることなど、山口はまったく理解していないようだ。中共は海軍を増強し、領土拡張の野望を隠そうとしない。ロシアは北方領土を返還する気などさらさらない。北朝鮮はならずもの国家だし、韓国も国家エゴをむき出しにしている。日本と同盟国の米国にしても、最終的には自国の利益優先だ。日本人が結束して外国にあたるべきは当然のことだ。「日本におけるナショナリズムの高まりは、外国から見たときにある種の不安を与える」(『危機の日本政治』)と山口はいうのだから、サヨク特有の自虐には付いていけない。それでは外国の思う壺ではないだろうか。戦後民主主義の落とし子のような山口よりも、名も無き庶民の方がリアルに現実を直視している。民主党政治を支えてきた山口のような学者文化人は、百害あって一利なしであり、サヨクの言説から抜け出せない教条主義者の典型だ。
福島市などで桃の出荷が始まっている。検出されたセシウムが暫定基準値以下であっても、ゼロではないようだから、安全をことさら強調するのはやり過ぎではないか。今日夕方のローカルテレビを見ていて、子供が頬張っている姿が目に飛び込んできた。農家を守るためにも、放射線の影響があまり受けない50歳以上の人たちには、率先して桃を食べてもらいたいが、若い人や子供に強制するのはどうだろう。アルコール類と同じように、年齢制限を設けるべきではないか。しかも、その暫定基準値は、WHOやアメリカと比べると、あまりにもゆるゆるだ。放射能汚染地図がネットで公表されており、それを直視すれば、誰だって福島県の農産物を買い求めるはずがない。福島市の桃と言えば、これまではお中元の贈答品として重宝がられていたのに、今年はパッタリである。それを風評被害と一言で片づけてよいのだろうか。東京電力や国の言葉に騙されて、福島県民の大半が被曝してしまったし、肉牛だって今頃になって騒いでいるのだから、まったく迷惑な話である。ここまで追い詰められれば、福島県の農家は筵旗を立てて、東電本社や国会に押しかけて騒ぐべきだ。福島の農産物を売れないようにした責任は、東電と国にあるわけだから。
内閣府の食品安全委員会が「生涯で100ミリシーベルトを超えないようにすべきだ」という答申案を発表したことで、国サイドの数値が示されたことは評価したい。法律に書かれている年間1ミリシーベルトというのを基準にしているのだろうが、人生80年ということを考えれば、年間1・25ミリシーベルトであり、そこには食品による内部被曝だけでなく、大気中や地表での放射性物質による被曝も含まれるのだという。しかし、その数値にもとづくと、会津地方が要注意地帯であることは否めない。原発事故が最悪であった3月15日の段階では、放射線量は1時間あたり2・5マイクロシーベルトを超えていた。現在でも会津盆地中央部では、1時間あたり0・3マイクロシーベルトが記録されており、それを年間にすれば2・628ミリシーベルトである。100ミリシーベルトをそれで割ると、38という数字になる。ゼロ歳の乳児が38歳でオーバーということだ。しかも、内部被曝は考慮されていない。文部科学省が公表した、学校での年間20ミリシーベルトが独り歩きしているが、それはあくまでも暫定基準値でしかなく、放射線を浴びるにしても、年間1・25ミリシーベルトが限度なのである。一つの指針が示されたわけだから、会津の各市町村も、それを踏まえた上で、短期、長期の両方の対策を講じるべきだろう。
左翼と革命家とは関係がない、というのを教えてくれたのは。一昨年に亡くなった平岡正明であった。60年安保の世代で、一時期は犯罪者同盟に拠ったりして、ラディカルなことにかけては、並ぶ者がいなかった。ジャズ評論家として鳴らしつつ、美空ひばりのファンでもあった。リンゴ追分を歌っては、聴衆を惚れ惚れさせた。平岡ならではの節回しが、今でも忘れられない。その平岡が左翼に不信を抱いていたのである。「左翼の色彩分布を桃色から真っ赤へ、左へ左へとたどって行くと、そのいちばんはじに革命家がいるという理解を、感覚的にもおいらは受けつけない」(『石原莞爾試論』)という言葉に、左翼嫌いの私などは拍手喝采したものだ。だからこそ、革命家とは縁遠い左翼を、私はあえてカタカナでサヨクと呼んでいるのだ。さらに、平岡は「革命家と左翼の一歩の距離は千里であり、革命家と反動の間の千里の距離はじつに一歩である」(同)との名言を吐いた。石原や北一輝を取り上げて論じたのも、あながち奇異なことではなかった。平岡があの世から出てきて、今の左翼の醜態を見たならば、「おいらが言った通りだろう」とほくそ笑んだに違いない。菅直人を始めとして、民主党政権の多くは左翼だ。革命家にほど遠い小物であるのを、早くから平岡は見抜いていたのである。