ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

函館の道路元標-旧桟橋で

2016年05月15日 07時30分14秒 | Weblog
        

 北海道の玄関口函館市。坂道を下って、港に面した旧桟橋まで来ると、何と、そこに道路元標らしきものが立っていました。
 さっそく近づいて表面に刻まれた字を読んでみると、読みづらくなってはいますが、たしかに「函館市道路元標」と刻まれていました。なんだか嬉しくなってしまいました。コンクリート製で天辺辺りは石が露出しています。裏面の字はさらに読みにくくなっていましたが、「昭和三年 北海道廳」と刻まれているようでした。
 本州から北海道へ。北海道の道路の起点がこの桟橋の場所だったんですねえ。いや感激しました。
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若葉のケヤキとアオサギ

2016年05月11日 03時56分39秒 | Weblog


 5月の連休は新緑がまぶしい。朝のウォーキングでも佐保神社の大ケヤキの若葉が朝日にまぶしく光っています。
 その緑の中に白い姿を見せているのがアオサギです。枯れている小枝をくわえては旋回しながら巣に運んでいます。
 明治館の木の天辺にとまって朝日を受けている姿は神々しくもあります。また、緑の中に白く光る姿もやはり神々しさを感じます。あの不気味な鳴き声さえ聞かなければ。
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父の手帳から-昭和の大合併

2016年05月10日 06時05分05秒 | Weblog
 昭和30年(1955)の父の手帳を5月4日付のこのブログに紹介しましたが、まさに昭和の大合併で新「社町」が誕生した、61年前のことが記されています。
 保育園、消防団、議会委員会、県庁、各地区関係など細かな日程が父の字で書き込まれています。4月3日の合併記念行事の「義士行列」では、父も扮装して参加している写真が残っており、このブログでも紹介したことがありました。福田橋は現在3代目。翌31年に竣工しています。今はすぐ下手に加東大橋ができています。
 新「社町」は平成18年(2006)、平成の大合併で加東市となりました。今、加東市は11年目の歩みを始めています。61年前の父の手帳の頁をめくりながら、ふるさと加東の61年前の歩みを確かめています。


4月1日(金) 新[社町]開町式 10時

4月3日(日) 義士行列

4月23日(土) 県会議員投票日 石井武夫氏当選

5月23日(月) 10時 福田橋起工式

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出番前の鬼-朝光寺鬼踊り

2016年05月09日 05時03分05秒 | Weblog
           

           

           

 5日のこどもの日、国宝朝光寺で行われた鬼踊り。その様子は6日のブログで紹介しましたが、今日はその主役の鬼の出番前の姿をお見せします。

 国宝の本堂では午後1時から檀家の女性によるご詠歌に続いて、僧侶による大般若経の転読法要が始まりました。経を大きく広げながら、大音声で読経します。その正面奧には、鬼踊りで使う松明が供えられているのがすぐ目に止まりました。そして、その下の方を見ると、鬼のお面が並べられていることに気付きました。
 これまでにも転読法要のようすは拝観してきましたが、その奧に松明とお面が置かれているのを初めて見たような気がしました。薄暗い堂内で読経によって法力を得、待ちわびる人々の前に姿を現す。踊る鬼の顔が生き生きと見えるのはここでいのちを吹き込まれているためだと勝手に納得してしまいました。
 
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五峰山麓下滝野の戦没者墓地

2016年05月08日 05時17分24秒 | Weblog
  

 光明寺への登山道の入口から少し南に行ったところから住宅街を下っていくと、山麓に墓地があります。さらに細い道を下っていると、右手に木の鳥居と軍人墓が目に入ってきました。下滝野地区の戦没者墓地だと思い、車を止めて、墓地の中に入ってみました。

 鳥居で礼をし、墓地に入ると、中央に英霊塔がありました。昭和24年9月建立と刻まれていました。その真後ろに大きな自然石が立っており、両翼にそれぞれ16基、計32基の墓が整然と並んで立っていました。戦没軍人の墓です。
 下滝野地区から出征し、戦死された兵士の御霊を祀り、鎮める聖なる区域です。光明寺への道にあり、下滝野地区の集落を一望できる場所にありました。
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寝仏-三草山を眺望す

2016年05月07日 04時24分55秒 | Weblog
 北播磨城郭研究会の藤原孝三さんが講演の中で「寝仏、三草山」ということを言われました。聞き慣れない言葉だったので、調査報告書を読み直してみると、やはり「寝仏の姿の三草山」と書いてありました。
 寝仏とは釈迦の涅槃の姿で、横たわるお釈迦様の寝姿のことをいいます。山上の山城の部分が頭部で、南の尾根が首、肩から胴体へと曲線を描きながら足の部分になっているように見えるということでした。
 その寝仏の姿をどこから見た山の姿なのかを確かに聞いていませんが、花まつりの朝、光明寺山腹の駐車場から眺望した三草山の姿は寝仏にも見え、感動しました。
 写真の一番奥の山塊が三草山です。写真左の高い部分が山城のある山上部で、仏の頭部にあたります。そして峰がいったん低くなる部分が首、そして再び高くなり、そこが肩にあたり、右(南)にいくにしたがい低くなる、すなわち胴体から足の部分になるというように見えるのであります。皆さんはどうでしょうか。
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朝光寺鬼踊り法会-子どもの健やかな成長を祈り

2016年05月06日 04時53分06秒 | Weblog
  

  

 5月5日(木)、「こどもの日」の恒例の伝統行事、国宝朝光寺(加東市畑)の鬼踊り法会が行われました。
 朝光寺には国宝の本堂、国の重要文化財の鐘楼、そして加東市の指定文化財の多宝塔が境内に隣り合って建てられていて、境内そのものがまるで宝物館のような寺です。
 今日は「こどもの日」にふさわしく、空は青く晴れわたり、朝光寺はまぶしいほどの新緑の光に包まれていました。空気も爽やかでおいしい空気を胸一杯に吸い込んでしまいました。多宝塔を見上げながらいただく一椀のお茶とちまきが心を満たしてくれました。
 境内には昼前から多くの人が訪れ、法会、鬼踊りが始まるのを待っています。本堂の正面には仮設舞台が設けられ、その周囲には早くから多くのカメラマンが場所取りをして待ちかまえていました。
 午後1時、本堂で大般若経転読法要が始まりました。檀家の女性によって御詠歌が謳われ、次に僧侶による転読が始まりました。大般若経をパラパラパラと大きく広げて読み上げるうぉーという大音声が堂内に響きわたりました。仏前に供えてあった松明と鬼の面を保存会の人たちが下げ、いよいよ堂前の舞台で鬼踊りが始まりました。
 まず翁が舞い、次ぎに鬼が登場します。鬼は4匹。翁は法道仙人にこの地を紹介した住吉の神様、鬼は顔や姿こそ恐ろしいのですが仏の化身だそうです。松明、剣、斧、錫を持ち、鐘の音に合わせて単調ですが、時に力強く地面を踏みたて、飛び上がりながら踊ります。鬼の顔は色が違うだけでなく、表情も豊かで楽しめました。一番、二番、三番の踊りが奉納され、最後に鬼が餅を切ります。その餅を参詣者に配るのです。餅は多宝塔前でも配られました。
 こうして、今年も好天の下、盛大に鬼まつりが行われました。
 
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昭和30年の県会手帳

2016年05月05日 04時06分05秒 | Weblog
  

 机の引き出しに古い手帳が入っていました。父のもので、表紙は一部が破れていますが、「1955」の数字、「HYOGO」「Prefechual Assembly」の文字が読めます。裏表紙には、「兵庫県会」「昭和三十年版」と記されています。

 これは、兵庫県会の昭和30年の県政日誌、すなわち県議会手帳です。当時、社町の助役だった父、藤本豊治の手帳で、手帳にはスケジュールなどが書き込まれています。3月29日の項には「解町式」、4月1日の項には「新[社町]開町式10時」とあります。昭和の大合併で、社町、福田村、上福田村、米田村、鴨川村の1町4ヶ村が合併して新社町が誕生した歴史的な日の書き込みです。

 手帳は、当時加東郡選出の県会議員だった石井武夫氏(社町社)の関係で使っていたのでしょう。手帳の裏表紙見開きには、当時(昭和29年11月1日現在)の県議会議席図が掲載されています。扇形に議席が4列に配置され、石井武夫議員は議長席から見て4列目の左から2番目(77番)、3番目に近藤次氏(加東郡選出)の名前がありました。

 
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播磨高野-五峰山光明寺で花まつり

2016年05月04日 04時34分23秒 | Weblog
            

 5月3日(火)、新緑の五峰山光明寺で花まつり法要が営まれ、多くの人が訪れました。朝から空は曇って、山上まで登ると強風が吹いて枝をゆすっていました。

 五峰山には4ヶ寺の塔頭寺院があり、それぞれの寺院で甘茶の接待や寺宝の公開などが行われ、訪れた人々はお釈迦様に甘茶をかけて感謝と祈りを捧げます。
 中腹の駐車場から急坂を歩いて登り、最初の寺院が多門院。毘沙門堂にお参りし、お釈迦様に甘茶をかけ、そのあと甘茶をいただきました。足の疲れと喉の渇きを甘茶が癒してくれます。
 さらに坂を登って、遍照院へ。ここでは、国の重要文化財に指定されている「銅造如来坐像」が公開され、その姿を間近に拝することができました。この仏像は昭和55年(1980)に遍照院の蔵で発見され、翌年、国の重要文化財に指定されたものです。高さ24.2センチメートル、重さは6キログラムの銅造りで、平安時代中期の作とされています。
 次は大慈院。大慈院では、日本に一つしかない善導大師の自画像があります。善導大師は7世紀の唐の高僧で、生涯に3幅の自画像を描き、その一幅が当時唐に留学していた僧によって日本に伝えられ、光明寺に納められたと伝えられています。あとの2幅は、インドと唐の長安の光明寺に納められたそうです。
 一番上は華蔵院。境内の苔、白壁の塀、緑の若葉が美しい寺院です。華蔵院を過ぎると、山門が目の前に現れます。光明寺の境内には神社や常行堂があり、さらに階段を上ると本堂に着きます。
 数年前から花はじめの法要を山頂のこの本堂で行うようになり、この一年間に亡くなられた方の家族や縁者が出席しました。
 元は「花まつり」は4月8日に行われていたのですが、太陽暦の普及する中、昭和17年から5月8日開催に変更され、さらに社会状況の変化に対応して5月3日に行われるようになった、と聞いています。

 いつもは、山上は静寂と緑に包まれ、読経の声と虚無僧の吹く尺八の音が響き、心が安まるのですが、今日は黒い雲が流れ、激しい風の音が轟いていました。本堂のさらに裏には光明寺合戦の本陣跡になっており、南北朝時代の戦乱の舞台があります。

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「三草山城」(北播磨城郭研究会報告書)を読んで

2016年05月03日 04時25分48秒 | Weblog
  

            

            

 4月25日付投稿のこのブログに、24日に行われた北播磨城郭研究会の講演会について紹介しました。

 中学生の頃から慣れ親しんだ三草山、源平合戦の三草合戦の伝承の授業づくりをした三草山でしたが、その山上に山城があったとは。藤原孝三さんの「三草山城」についての調査研究発表の内容に衝撃に近い強い関心を抱きました。
 5月1日に加古川の川開きでお会いした方と、三草山城や登山が話題となり、一層興味を惹かれました。
 そこで、北播磨城郭研究会の調査報告集17集(28年3月発刊)「播磨国酒井の役目-三草山城」を読んでみました。

 報告書の「はじめに」で、「戦国時代の山城跡として、大きくて残りの良いものであると感じた」と調査結果の感想が述べられています。
 三草山城は、三草山(標高423.8m)の山頂に南北朝期から戦国時代後期にかけて存在していましたが、「位置」について、三草山が京から播磨国に入る北東の入口に位置し、播磨国の防衛の「重要な場所」であったと述べています。「要衝の地」であったことは、源平合戦の三草合戦や南北朝時代にも足利尊氏が通過したことなどからもあきらかです。報告書には、三草山城をはじめ、西脇や東条の山城の配置図が付けられています。三草山城は京街道を監視する上で重要な位置にあったわけです。
 ただ、当初は「監視の拠点」としての役目をもっていたのですが、やがて、「京街道の支配」へと役目(機能)が変わっていきます。現在の遺構は、戦国時代(天文年間)に改修されたものと考えられています。

 三草山城は、山上に「南北約200m、東西70mの逆J形に、最高所に2段の郭(本郭)を設け、東西方向に数段の郭と南北方向に9段の郭を構築した連郭式の山城」であるとしています。また、山城には3ヶ所の「水場」が設けられています。
 三草山城は京街道を押さえるために、「山城を背景に街道に向かって所在する岡の茶山に根小屋を設置」したと推測しています。

 川開きで話した地元の方は、三草山によく登っているとのことで、山上の形から城があったと思っていたということでした。また、駐車場や登山道が整備されていますが、登って下りて、もう一度登って元の場所に戻ってくる楽しみ方もあり、古道を下るのもいいですよ、と話されていました。その健脚ぶりにびっくりでした。
  

 
 
 

 
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加古川の川開き・鮎漁解禁-水神社で祈願

2016年05月02日 04時56分17秒 | Weblog


 



 5月1日(日)、まぶしい日射しの下、加東市上滝野の名勝闘龍灘は普段より水量も多く、岩場に白い波しぶきが轟音をたてて光っていました。

 全国で一番早く鮎漁が解禁となるこの日、多くの釣り人達が岩場に陣取って釣竿を差し出して、若鮎をねらって糸を垂れていました。今年も加古川漁協により揖保川の鮎が放流され、滝を上ろうとする鮎を釣り上げていました。
 闘龍灘では、「筧漁」と呼ばれる伝統の鮎漁が行われていました。筧(樋)で滝の水を岩場に引いて、鮎の飛ぶ習性を利用した漁のことです。放流用の鮎が少し逃げて、岩場の水溜まりで泳いでいるのを子供が網で捕っていました。
 
 滝を見下ろす闘龍スクエアにある水神社では、毎年恒例の川開き神事が行われました。加東市観光協会が主催し、加東市、国土交通省、国会、県会、市会議員、地元区長、加古川漁協、観光ボランティアが参列し、地元上滝野の春日神社の長谷川宮司が祝詞をあげ、今年の豊漁と川の安全を祈願しました。その後、全員で若鮎を加古川に放流しました。

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三草山から朝日が昇る

2016年05月01日 04時21分32秒 | Weblog




 4月30日(土)の朝はよく冷えました。午前5時20分頃に家を出て、もうすぐ日の出で赤みを帯びた東の空につられて三草山がよく見える百旗(ひゃくはた)の方へ歩き始めました。
 加東市役所から北へ国道372号を下り、視界が大きく広がる交差点まで来ると、前方の三草山の峰の南の方からまばゆい光りが射しました。日の出です。思わず池の堤に駆け上がって日の出を拝みました。池面は冷えた空気に湯気が立ち、風に流されて揺らいでいます。
 北播磨城郭研究会で三草山城の調査報告を聞いてからは山頂の稜線の形が妙に気になるようになりました。雲一つ無い透明な空にくっきりと見える三草山の山上に戦国時代の砦のような影が幻のように見えてきます。
 千鳥川への道を下り、桜堤公園の方へと歩きました。千鳥川の川面にも湯気が立ち、その中を一羽の鴨が舞い降りました。しばらく流れに逆らって泳ぎ、勢いよく羽ばたいて水面すれすれに飛び去っていきました。
 
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