ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

「三草山城」(北播磨城郭研究会報告書)を読んで

2016年05月03日 04時25分48秒 | Weblog
  

            

            

 4月25日付投稿のこのブログに、24日に行われた北播磨城郭研究会の講演会について紹介しました。

 中学生の頃から慣れ親しんだ三草山、源平合戦の三草合戦の伝承の授業づくりをした三草山でしたが、その山上に山城があったとは。藤原孝三さんの「三草山城」についての調査研究発表の内容に衝撃に近い強い関心を抱きました。
 5月1日に加古川の川開きでお会いした方と、三草山城や登山が話題となり、一層興味を惹かれました。
 そこで、北播磨城郭研究会の調査報告集17集(28年3月発刊)「播磨国酒井の役目-三草山城」を読んでみました。

 報告書の「はじめに」で、「戦国時代の山城跡として、大きくて残りの良いものであると感じた」と調査結果の感想が述べられています。
 三草山城は、三草山(標高423.8m)の山頂に南北朝期から戦国時代後期にかけて存在していましたが、「位置」について、三草山が京から播磨国に入る北東の入口に位置し、播磨国の防衛の「重要な場所」であったと述べています。「要衝の地」であったことは、源平合戦の三草合戦や南北朝時代にも足利尊氏が通過したことなどからもあきらかです。報告書には、三草山城をはじめ、西脇や東条の山城の配置図が付けられています。三草山城は京街道を監視する上で重要な位置にあったわけです。
 ただ、当初は「監視の拠点」としての役目をもっていたのですが、やがて、「京街道の支配」へと役目(機能)が変わっていきます。現在の遺構は、戦国時代(天文年間)に改修されたものと考えられています。

 三草山城は、山上に「南北約200m、東西70mの逆J形に、最高所に2段の郭(本郭)を設け、東西方向に数段の郭と南北方向に9段の郭を構築した連郭式の山城」であるとしています。また、山城には3ヶ所の「水場」が設けられています。
 三草山城は京街道を押さえるために、「山城を背景に街道に向かって所在する岡の茶山に根小屋を設置」したと推測しています。

 川開きで話した地元の方は、三草山によく登っているとのことで、山上の形から城があったと思っていたということでした。また、駐車場や登山道が整備されていますが、登って下りて、もう一度登って元の場所に戻ってくる楽しみ方もあり、古道を下るのもいいですよ、と話されていました。その健脚ぶりにびっくりでした。
  

 
 
 

 
コメント
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