ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

昭和初期-義士に扮した青年と「赤岸」明治橋の風景

2015年12月14日 05時03分40秒 | Weblog
            

           

 12月14日といえば忠臣蔵。日本人の魂の物語です。GHQによる占領時代には「仇討ちもの」は許可されなかったそうです。「忠義」によって主君の仇討ちをする武士の精神は日本人の強さの源泉と見ていたアメリカがもっとも恐れるものでした。

 さて、その赤穂義士による仇討ちの物語に思いを馳せ、忠義を称え、追慕する日が14日であります。昭和のはじめ、加東郡社町(旧の社町、今の加東市立社小学校校区にあたる)の青年団は義士祭を企画、実行していました。父の日記や写真帳に当時のようすを伝える記述や写真があります。当時は義士行列や相撲大会など賑やかに行われていたようです。父はいつも大高源五に扮したことを自慢気に話していたことが記憶にあります。なぜ大高源五が好きだったのかは知りませんが、大高源五は享年32歳、辞世は「梅でのむ茶屋もあるべし死出の山」。
 もう一枚の写真は観音寺のある「赤岸」を北の千鳥川に架かる明治橋から望んだものです。昭和10年代のものですが、「赤岸」(赤穂義士が訛ったものと伝えられている)辺りは老松が繁っています。
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