ふるさと加東の歴史再発見

少し気をつけて周囲を見回してみると、身近なところにふるさとの歴史を伝えるものがある。

義士祭近づく-加東市家原観音寺

2015年12月06日 05時28分38秒 | Weblog
   

 

4日(土)、今日も空は晴れて、寒風が吹きました。播磨平野の典型的な冬の空模様でした。

 社の市街には「義士祭」と染め抜いた幟が掲げられ、強風にはためいています。12月14日に恒例の加東市赤穂義士祭が行われることを告げています。この幟を見ると、いつも師走を実感させられます。
 義士祭が行われる加東市家原の観音寺は、社市街地の北、「赤岸」の交差点にある赤穂浅野家のゆかりの寺です。「赤岸」の地名は「赤穂義士」が訛ったものと伝えられています。
 観音寺の本堂の北側の一角に浅野内匠頭と大石父子を囲むように四十七義士の墓碑が建てられている菩提所があります。これは義士の150回忌にあたる弘化4年(1858)、義士の忠義を称え、追慕するこの地方の民衆の寄附によって建てられたものです。
 四十七士の墓は、東京の泉岳寺、赤穂の花岳寺が有名ですが、実はもう一つ、この家原観音寺にも両寺に劣らぬ立派な墓碑があるのですが、このことはあまり知られていません。日本に三ヶ所だけある四十七士の墓の一つなのです。私は東京で学生生活を送っていた40年ほど前に、先輩に連れられて中央義士会に出席したことがあるのですが、義士の子孫の方々も家原観音寺の菩提所のことはご存知ありませんでした。

 当地と赤穂義士の関係をたどってみると、次のようになります。

 赤穂浅野家の領地は5万3千石でした。その内訳は、赤穂郡3万5200石(119ヶ村)の他に、加西郡8920石(33ヶ村)、そして加東郡(現加東市、小野市域)8201石(24ヶ村)、佐用郡1200石(5ヶ村)という構成になっていました。
 加東郡の領地のうち、現加東市域に23ヶ村があり、加東市は赤穂浅野藩と強い結び付きがあったのです。加東市内の村名を挙げると、上三草、下三草、牧野、曽我、多井田、北野、穂積、○垂水(西垂水)、○窪田、○中村(上中)、○北村(喜田)、○梶原、木梨、○家原、○鳥居、○田中、○貝原、河高、野村、上田、○福吉、大門、○沢部の23ヶ村にのぼります。このうち、○印の11ヶ村はのちに家原浅野家に分知されました。
 加東市家原の観音寺に赤穂義士の墓碑が建てられたのもこうした浅野家の領地だったという経緯があります。
 1671年、浅野長賢(ながかた)に加東郡内の領地3千5百石が分けられ、旗本・家原浅野氏がつくられました。家原には陣屋(役所)もつくられ、その後、家原浅野氏は明治維新の廃藩までの7代、約200年続きました。観音寺はいつ建てられたかははっきりしませんが、家原浅野氏がつくられた頃だと考えられています。浅野氏の祈願所・香華所であったようです。社の市街地にある善龍院は家原浅野氏の菩提所とされ、住職が観音寺の住職を兼ねていました。

 観音寺の四十七士の墓は、義士を慕う民衆が寄附して建てたものだという特色をもっています。観音寺で義士祭が始まったのは昭和の始めの頃ですが、郷土の歴史や先人の志を伝えるこの義士祭をこれからも大切にして次代に伝えていきたいと思います。
 今年は14日が月曜日。地元の人々は「義士祭」と呼んで、この日は観音寺にお参りし、四十七士の墓碑に線香を手向け、家原の皆さんの接待して下さる甘酒をいただき、福引きをするのを楽しみとしています。
 この義士祭を中心になって担っているのは、地元の家原地区と社連合区、加東市観光協会、加東市商工会など、義士奉賛会の皆さんです。
 義士祭では、市内の寺院の僧侶による追善法要のほか、少年剣道大会や中学駅伝大会などが開かれます。ぜひ、観音寺にお越し下さい。(写真は去年の法要のものも紹介しています)

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