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麻田雅文 『日ソ戦争 帝国日本最後の戦い』 ノオトその4 釧路と留萌を結ぶ線 ソ連の北海道占領計画  

2024-08-27 13:14:34 | Weblog

もし、ソ連が釧路と留萌を結ぶ線の北半分を占領していたら?朝鮮半島は38度線で分断され東西対立によって朝鮮戦争が起こった。東西ドイツの分断も冷戦終結まで続いた。僕の父親は釧路育ち、母親は函館で育っているので二人の出会いはなかった。僕は僕として生まれていなかっただろう。

 

『日ソ戦争 帝国日本最後の戦い』(麻田雅文著 中公新書 2024年刊) ノオトその4 釧路と留萌を結ぶ線 ソ連の北海道占領計画      

 4.北海道上陸作戦

 (米国)1945.8.16トルーマン大統領からスターリンへ日本軍の解体案が届けられる。案では、ソ連軍に降伏すべき地域は、「満州、北緯38度線以北の朝鮮、サハリン」のみで千島列島は記されず。

○(ソ連)1945.8.16スターリンからトルーマンへの返信。上記の地域に加え、「全クリル諸島(千島列島)、釧路と留萌を結ぶ北海道の北半分」を求める。

(ソ連)1945.8.17ソ連軍では北海道占領の準備が始まる。1945.8.18ヴァシレフスキー極東ソ連軍総司令官がスターリンへ作戦計画を送る。8.19から9.1までに2個師団を北海道に、1個師団を千島列島に送る。留萌への上陸は8.24午前5時の予定。

○(米国)1945.8.17トルーマンからスターリンへの返信で、北海道の北半分を譲るのを拒絶。ただし、「全クリル諸島」をソ連軍に明け渡す領域に含めるのに同意。(千島列島がどこまでを指すのか、具体的に示さず。→その後の北方領土問題へ)

(ソ連)1945.8.20スターリンは北海道と千島列島南部での作戦準備を続けさせる。だが、8.22スターリンは北海道上陸の準備中断を命じる。同日、トルーマンに千島列島で米国に飛行場の提供するのを拒否と返信する。

(ソ連)1945.8.22午後2時55分、スターリンの命令を受けて、ヴァシレフスキー極東ソ連軍総司令官は、北海道への上陸作戦は待機するよう命じる。(中止ではない。)

(ソ連)1945.8.26アントーノフ参謀総長はハリマン駐ソ米国大使へ、北海道への上陸作戦の計画はないと明言し。8.27北海道に艦艇、航空機が近寄ることを禁じる。(上陸を断念)

 

○なぜスターリンは北海道上陸作戦を断念したか。

・研究者の意見は分かれている。(立証できる資料が欠けているため)

①南樺太、千島列島での日本軍の奮戦が北海道の占領を防いだ。

②朝鮮北部と全千島列島をソ連が占領するのを、米国が認めたのでソ連も妥協した。

③ソ連が米国との関係悪化を恐れた。

 

 

 

 

 

 

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麻田雅文 『日ソ戦争 帝国日本最後の戦い』 ノオトその3 フラ作戦 占守島 北方領土

2024-08-18 15:50:15 | Weblog

僕にとっては、道新2017.12.30付け記事は衝撃的だった。どういう歴史的な文脈の中で米国がソ連に対して、艦艇を貸与、兵士の訓練したのか。伝えられている北方領土問題には、違う側面があるのではないかという疑問を持った。

 

『日ソ戦争 帝国日本最後の戦い』(麻田雅文著 中公新書 2024年刊) ノオトその3   

3.日本の最北端での激戦―占守島

【知りたいこと】米英との戦闘は終わった。だが、ソ連は停戦に応じなかった。なぜ日ソ戦争は1945.8.15に終結しなかったのか。

(歴史を遡る)

・1855.2.7(安政元年12.21)日魯通好条約(日露和親条約)により、択捉島と得撫島(うるっぷ)の間に国境。

・1875、樺太千島交換条約により、占守島から得撫島までの18島をロシアから譲り受ける。従って、択捉・国後・色丹・歯舞群島(北方領土)は、1855から1945まで常に日本領)→北方領土は日本の固有の領土という主張の原点。だが、第二次世界大戦によって・・・・以下。

 

(米国)1943.5アリューシャン列島のアッツ島を奪還(玉砕)。米軍にとって千島列島は、海上輸送路、飛行場使用として重要。ソ連の協力が不可欠だとして米ソ共同作戦を提案するもスターリンにはぐらかされる。

○(再掲)(ソ連)1944.10.15モスクワ会談、スターリン「対日作戦計画」を米英に提示、(見返り)対日戦のため艦艇を要求。(ソ連軍には上陸作戦のノウハウがない)

(米国)1944.12「マイルポスト計画」で16隻の艦艇をソ連に提供

(米国)「フラ作戦」、1945.4~8でソ連兵12,000人をアラスカ州コールドベイ基地で訓練、5~9月に145隻の艦艇をソ連に無償貸与。(道新2017.12.30付け記事)

(米国)1945.2.22ソ連軍が南樺太を占領したら、択捉島・松輪島に上陸する「キール・ブロックス(竜骨盤木)作戦」を立案するも、7月末には犠牲が大きいと米軍による千島占領を断念。

(再掲)1945.7.24ポツダムで米ソ参謀長は千島列島の作戦を協議。温禰古丹(おんねこたん)海峡を米ソの境界線とし、ソ連軍の作戦区域を最北部の占守島と幌莚(ぱらむしる)島ほか2つの小島と区分する。

 

○(ソ連)1945.8.15午前7時30分、ペトロパブロフスク海軍基地(カムチャツカ半島)司令官のポノマリョフ海軍大佐は、占守島上陸の準備を命じられる。→千島列島の占領は、日本がポツダム宣言受諾を各国に通告した後に始まった。

(ソ連)1945.8.17午前4時、上陸部隊(8,824名)がペトロパブロフスク・カムチャツキーを出港。(海霧で援護の航空機飛ばせず)

(日本)1944.5幌筵(ぱらむしる)島で、第91師団(25.000名、軽重火砲200門、航空機8機、戦車64輌)が防備。

○(日本)第91師団にも8.15の玉音放送は伝わっている。1945.8.17夜、樋口第5方面軍司令官から軽挙妄動しないようにと訓示があったのに、占守島にソ連軍が上陸すると、日本軍は激しく抵抗する。なぜだろうか。

(日本)1945.8.17大本営から第5方面軍に「一切の戦闘行動停止、但し止むを得ざる自衛行動を妨げず、その完全徹底の時期を1816とする」との命令。18日16時までは「自衛行動」が許されるとも解釈できる。この時間指定は、昭和天皇が裁可した「大陸令」にはない。大本営が加筆。

(ソ連)1945.8.18午前1時半、ロパトカ岬から砲撃(開戦)。8.18午前2時、占守島北端の武田浜にソ連軍が上陸。だが、上陸用舟艇荷物を積み過ぎ近づけず。濃霧で航空機飛べず。日本軍の十字砲火を浴びる。

(日本)1945.8.18午後、札幌の第5方面軍から「戦闘を中止し、自衛戦闘に移行すべし」との命令が入る。幌筵島の堤第91師団長も「8.18午後4時に攻撃を中止し、防御に移るよう」命じる。だが、ソ連軍は戦闘を止めない。

(日本)1945.8.19現地で停戦交渉、ソ連側からの停戦と武装解除の要求に対し、堤師団長が武器引き渡しを拒否し、まとまらず。同日、大本営はマッカーサーにソ連軍の戦闘停止を訴えるが、ソ連軍はマッカーサーの指揮権を認めておらず効果なし。

○(日本)第5方面軍から第91師団に1945.8.21に停戦と同時に武器引き渡しを認めると伝える。第91師団は攻撃再開を取りやめる。1945.8.21占守島で停戦成立、8.24武装解除。(占守島での死傷者は、ソ連軍1,567名、日本軍1,018名、ソ連軍奇襲失敗)

 

(ソ連)強攻は愚策と覚ったソ連軍は、千島列島の他の島は、第91師団の幕僚を案内人にして降伏させる。占領を急ぐソ連側と流血を回避したい日本側の思惑が一致。占守島より南の占領は、日本軍の協力で戦闘が回避される。

 

 

 

 

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