真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「ザ・恥毛と縛り」(1992『剃毛緊縛魔』の2010年旧作改題版/企画:セメントマッチ/製作:BREAK IN/提供:Xces Film/監督:池島ゆたか/脚本:五代響子/制作:宮本章裕/撮影:下元哲/照明:小田求/編集:酒井正次/メイク:小沢典子/スチール:佐藤初太郎/助監督:浅岡博之/撮影助手:中尾正人/照明助手:広瀬寛巳/録音:銀座サウンド/現像:東映化学/出演:北野ほたる・渡辺千尋・小泉あかね・しのざきさとみ・伊藤清美・芹沢一路・大沢裕子《特別出演》・山ノ手ぐり子・平賀勘一・池島ゆたか・切通理作・アーバン下赤塚・川崎浩幸・安永美千代・劇団 流星舞台・山本竜二)。出演者中、切通理作とアーバン下赤塚に安永美千代、劇団 流星舞台は本篇クレジットのみ。あと、ポスターが小妻容子の責め絵。
 最終的には時系列上の位置が不明確ながら、「新日本出版」―因みにエクセス母体の会社名が新日本映像―の営業マンで元題を清々しく体現する藤岡真彦(山本)が、出張風俗店「キャンディ」から呼んだひかる(小泉)を拘束、無理矢理陰毛を剃り落とした上で監禁する。といふのは、何某か大事を仕出かしたらしい藤岡の足跡を辿るルポライターの取材に応じての、その一件を機に足を洗つたひかるの証言。仕事柄官憲には頼れなかつた旨が語られつつ、藤岡がその状況から、ひかるを手放したタイミングも不明。続いて、一貫して姿を見せねば声も聞かせぬルポライターは、郷里で演劇活動に参加してゐた高校時代に、当時同じ劇団に所属する先輩の藤岡から強姦された、南雲美奈子(北野)の下を訪ねる。自己変革の目的は持ち劇団に入つたものの、まるで芝居に向いてはをらずお荷物的ポジションの藤岡は、ある日座長(川崎)が新人として連れて来たセーラ服姿の美奈子に一目惚れする。その後美奈子には矢張り劇団員の田中順一(芹沢)といふ彼氏が出来たにも関らず、一方的かつアグレッシブに岡惚れを拗らせた藤岡は、巧みにでもなく誘ひ出した美奈子を犯す。それが恐らくは最初の、藤岡が起こした事件であつた。こゝで二点、座長役の川崎浩幸は、現に流星舞台(→星座→超新星オカシネマ)の座長であるかわさきひろゆき。個人的には今回初めて見た表記であるが、以降も散発的に使用してゐるやうだ、これが本名なのだらう。更に特筆すべきは、下調べの時点ではノー・マークの芹沢一路が実際に映画を観てみたところ、何と当時は杉本まことであつた筈の現在のなかみつせいじ。本名の中満誠治で昭和末期にデビュー後杉本まことに、更に2000年に現行のなかみつせいじに改名してゐる推移までならば押さへてもゐたが、加へて全く別個の名義を使用してゐたとは。憚りながらピンク映画の感想千本を本気で目指し、何とかかんとか八百本も通過したばかりではあれ、なかなかどうして、まだまだ奥は底知れず深い。
 登場順に五代響子(現:暁子)と同一人物の山ノ手ぐり子は、時代も感じさせる眼鏡が馬鹿デカい劇団員。卒業後上京し就職した美奈子は、勤務先にて出入り業者の藤岡と驚きの再会を果たす。余程懐が深いのか、友人としての関係を再開させた美奈子を、藤岡は行きつけのスナックに度々連れて行く。脱ぎはしないが、如何にもらしい風情を頑丈に迸らせる伊藤清美は、店のママ・さおり。ところでさおりのスナックは、エクセス公式サイトによると“ぼでこん亭”と誤記された上で、新宿三丁目に現存する「ぼでごん亭」と紹介されるが、画面上は確認能はず。劇中最悪の被害者となる渡辺千尋は、藤岡が美奈子には婚約者と勝手に語る「ぼでごん亭」の女・久美。しのざきさとみは藤岡の母、藤岡の、女の恥毛を病的に忌避する性癖は、離婚後男を取つ換へ引つ換へ息子の目も顧ず家に連れ込んだ、母の姿を激しく嫌悪した体験に基くものであつた。池島ゆたかは、しのざきさとみの背後から乳繰り合ふ男。平賀勘一は、検挙後藤岡が収容された病院の精神科医。カメオ特記は本篇クレジットのみの大沢裕子は、そこで藤岡にも温かく接する看護婦。
 関係者へのインタビューを主軸に据ゑ、回想といふ形でドラマを積み重ねて行く。いはゆるモキュメンタリーと一般的な劇映画とを巧みに折衷する方法論は、芹沢一路改め改めなかみつせいじが佐野和宏の死の真相を追ふ、「芸能《裏》情事 熟肉の感触」(2002)の前半部分と、ほぼ同じものといへよう。“ほぼ”といふのは、今回は取材者の気配を対象者の反応以外には始終一切排した点が、「芸能《裏》情事」との最も大きな差異として挙げられる。それが全てといふ訳でもあるまいが、後半なかみつせいじ演ずる事件記者・水谷の失速とも連動し脱力する「芸能《裏》情事」と比して、今作は硬質な緊張感を終始維持する。考へてみれば、監督百一作目にして百本に一本の大傑作「超いんらん やればやるほどいい気持ち」(2008)も踏まへると、ピンクの普請ではさうさう望むやうには運ばないといふのは承知してゐるつもりだが、レギュレーション通りの限られた人員で腰を落ち着け物語を進行させて行くのでなく、多人数を手際よく捌くことにより一つの主題に多方向から迫る手法に、池島ゆたかといふ映画監督はより長けてゐるのかも知れない。今回は上滑らずに狂気を滲ませる山本竜二迫真の熱演も加はり、傍目には犯罪的に―現に犯罪でしかないのだが―迷惑極まりなく、当人にとつても決して報はれ得ない二重の意味での悲劇は淡々と、且つ見事な充実を伴なひ描かれる。今現在の目からしても全く面白いが、しかも凡そ二十年前ともなる公開当時には、構成にしても異常性愛といふテーマにしても双方の目新しさが、相当の興奮を以て迎へられたのではあるまいか。そして、兎にも角にも超絶に素晴らしいのは、依然、些かも快方には向かはない藤岡が彷徨ひ込んだ病院の一室に終に辿り着いた、他者を傷つけもした傷つき壊れた魂を慰撫する、別の意味での真実の愛。一重にしか愛することを知らなかつた藤岡が長く厳しい遍歴の果てに、現し世からは完全に零れ落ちたまゝに、漸く手にした夜の夢にも似た真。こゝぞと下元哲必殺のソフト・フォーカスも火を噴く文字通り幻想的なショットの、歪んだ美しさは比類ない。それは、歪んでゐるとはいへども美しい、のではなく、歪んでゐるからこそ、歪んでゐるだけ美しい類の美しさ。たとへそれが藤岡と同じく、心の歪んだ人間にしか届き得ないものであつたとしても、だからこそ、なほのことそれこそが映画のエモーションであると、歪み抜いた心で当サイトは信ずる。実は、序盤にしか登場しない小泉あかねが女優部一の美人である、結構致命的な不均衡に終始囚はれてもゐたものであつたが、そのやうな瑣末なんぞ、欠片もどうでもよくなつてしまつた。と、激賞したまゝ、藤岡に同調し恍惚と筆を擱きたいところではあつたのだが、さうも問屋が卸しては呉れない。そこで、一息にお人形のやうな北野ほたるに映画を任せずに、特別出演の恩義に報いてか、正しく蛇足としか思へない大沢裕子を噛ませてのける野暮つたさが、ある意味池島ゆたかが池島ゆたかたる所以といへばそれまででもある。

 十人を跨ぐ人数が投入されるその他出演者は、劇団員と「ぼでごん亭」要員の皆さん。切通理作が客席に見切れてゐるらしいが、ここも視認叶はず。更に、出社して来なくなつた藤岡の「新日本出版」後任・三田。「ぼでごん亭」ボックス席の白都翔一似の客と、三田のアテレコの主は池島ゆたか。


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