真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「ドキュメント・ポルノ 痴漢《秘》レポート」(昭和48/製作:プリマ企画株式会社/監督:代々木忠/製作:藤村政治/企画:渡辺忠/構成:池田正一/撮影監督:笹野修司/撮影:稲田昌平/特撮班:山田基吉・上條正己/録音班:秋山グループ・大久保グループ/音楽:多摩住人/編集:中島照雄/記録:奥山深作/助監督:阿部峰昭/製作進行:大西良夫/製作助手:山下幹夫/インタビュアー:大辻司朗/ナレーター:西原徳)。企画の渡辺忠は、代々木忠の変名。製作の藤村政治とナレーターの西原徳が、ポスターには渡辺忠と都健二、割と自由。現像所のクレジットがないのは、本篇ママ。それとポスターにのみ、監修として若林孟。若林孟が実際に関つてゐたのか否かは、本篇を見る限りでは全く以て判らない。
 東京全体を軽い俯角で捉へたロングに、車が引切り無しに通り過ぎる幹線道路の画を繋げて、“異常に膨れ上がつた経済大国日本”と耳慣れない声のナレーション起動。今や涙目の遥か遠く彼方の大昔に霞む、飛躍的な高度経済成長を遂げた日本の裏側に隠された大きな歪み。の中に棲息する人々の、“本能といふ怪物に支配されたあまりにも人間的な行為の偽らざる記録”とかいふ社会派気取りの有体な方便で、諸々の痴漢行為を列挙する奮つた趣向を案外スマートに開陳する。さういふ塩梅で、それらしきロケーションを工面する手間なり袖をイズイスティックに端折つたのか、そこら辺の公園にて大辻司朗が結婚二年目ながら、未だ絶頂を知らぬゆゑカーセックス浮気に溺れる人妻にインタビュー。ところで今作封切りの二ヶ月後に、大辻司朗(ex.大辻伺郎)は自ら命を絶つてゐる。その折にはあの勝新太郎が死を悼むほどの俳優ないし人物であつたやうなのだが、正直今作に於ける大辻司朗はといふと、話を訊く対象者である一山幾らの俳優部よりも、インタビュアーの癖に軽く呂律が回つてゐなかつたりもする。それはこの期にはさて措き、暗くてよく見えないカーセックスの映像に、トクレーションで改めてコンセプトを踏まへて正面を向いたカメラにタイトル・イン。タイトルバックは、そこかしこの青姦に照明を直撃させる。
 jmdbには佐々木元の監督作として登録されてゐるのが、周辺に波及してもゐるらしい代々木忠昭和48年第一作。確かにためにもなる反面、穴も一杯開いてゐるのがjmdb。さいはひ現物にサブスクで容易かつ大量に当たれる時代につき、ひとつひとつ潰して行くほかない。
 例によつて配役には手も足も出せない中、アバンのカーセックス人妻は軽いイントロダクション程度に通り過ぎ、以降は七年といふ長いのか短いのか微妙なキャリアを誇る覗きの達人。二十四歳のキーパンチャー・風間ユミこと、覗きながらの自慰に狂ふ女。吃驚するほど二枚目のスケコマシに、達人のAさんが再び登場。男が入つた電話ボックスを急襲して、本番行為を仕掛けるダイナミックな痴女と続く。第一次達人氏篇では暗視撮影―が特撮班の仕事なのか―を敢行し、スケコマシがダンスホールで捕まへた女の体に手を這はせるシークエンスに際しては、やれば出来るぢやないかといふくらゐ、細かくカットも割る。余程濫造してゐたのか、五作後の「発情族を剥ぐ」よりは全然飽かせず見させる。飽きずに見てゐられるといふだけで、別に面白いとは特にも何も決していつてゐない。ある意味では趣深いのが、スケコマシが女と入つた同伴喫茶の、隣のボックス席で男に逃げられた黒髪ロングを何故か一旦フィーチャー。第二次達人氏篇と電話ボックス女篇を経て、一体あの女は何だつたのかと訝しむか忘れかけるタイミングを見計ふかのやうに、黒髪ロングが茶髪ショートに文字通り変貌してまさかの再臨。しかも、件のカノウヤスエの職業が表向きは按摩の体で、追銭で体も売る所謂パンマ。“我々は細心の注意と限界を遥かに超えた忍耐力で遂に彼女を捕らへた”とか、段々水スペ感覚の撮影隊が最終的にはヤスエが官憲に逮捕されるまでを追ふと、母親の死を機に飛騨高山から北海道空知郡上砂川町に移る云々と、要は貧困に負けた一人の少女が、売春婦に身を落とす経緯を切々とトレース。痴漢のドキュポルであつた筈なのに、何時の間にかパン女のありがちな転落物語に着地してみせる豪快な構成がケッ作でありつつ、更にそこで終らないんだな、これが。“少女は再び蘇つた”と明後日に晴れ晴れしく謳つてのけるヤスエの現況が、パンマでパクられ娑婆に出て来たかと思へば、今度は停車中のドライバーを相手とする矢張り所謂ジャリパン、棲息地しか変つてゐない。そんな人を喰つたヤスエの姿を、心なしか力を込めたトクレーションで「何かが狂つてるとしかいひやうのない現代」、「そこに生を受けた者はこの少女と同じやうに、誰しもが十字架を背負つてゐるといふことを忘れてはならない」だのと、大仰な風呂敷で畳んでのける心にもなさが、如何にも量産型娯楽映画的で清々しい。エンドマークの“完”がフレームの右袖から滑り込んで来て、予想に反し画面中央を華麗に突破、そのまゝ横断した左端で漸く停止するのも何となく斬新。


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