真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「不純な制服 悶えた太もも」(2008/製作:Blue Forest Film/提供:オーピー映画/監督:竹洞哲也/脚本:当方ボーカル/原題:『いつまでもどこまでも』/撮影監督:創優和/助監督:山口大輔/編集:フィルムクラフト/録音:シネキャビン/監督助手:新居あゆみ/撮影助手:宮永昭典/照明助手:門田博喜/音楽:與語一平/スチール:佐藤初太郎/現像:東映ラボ・テック/協力:加藤映像工房・館山智子/挿入歌『海にとかして』作詞・作曲・唄:キョロ/出演:Aya・青山えりな・田中繭子・松浦祐也・吉岡睦雄・世志男・石川雄也・サーモン鮭山・倖田李梨《友情出演》)。出演者中倖田李梨のカメオ特記は、本篇クレジットのみ。
 走る女子高生のショットに、重ねられるモノローグ「卒業式の日。私が選んだ進路は、犯罪者」。
 卒業式当日、やさぐれたギャルJK・荒木寛子(Aya)は、女子高生らしいことの記念にと野球帽にオーバーオールのサーモン鮭山を相手に朝つぱらから援交をカマすと、幼馴染のチンピラ・金田華丸(松浦)を伴ひ、オートマチック式の拳銃を手に現金目当てで暴力団組事務所を襲撃する。銃は組から指示された殺しをこなし、今は自首した上服役する華丸の兄貴分で寛子が秘かに想ひを寄せる、平松慎一(石川)から渡されてゐたものだつた。平松が撃ち、残つた弾は三発。平松は二人に、いよいよ追ひ詰められた際には一発目は相手に、それが外れた場合、二発目以降は自分達に向けろと拳銃を託す。車で組事務所に向かふ途中、華丸が引つ掛けてしまつたパチンコ狂ひで借金に溺れた人妻・宮下沙記(田中繭子/ex.佐々木麻由子)を、二人は仕方がないので仲間に加へる。始終は大胆に割愛しつつ、襲撃は成功。金を手にした寛子は沙記に分け前を渡し別れると、再び華丸とともに、平松の内縁の妻・高梨洋美(青山)が暮らす新潟県上下浜を電車で目指す。一方、組に雇はれた殺し屋ならぬ「生け捕り屋」の佐野秀志(吉岡)と井手玉生(世志男)が、沙記はあつさり片づけると奪はれた現金と身柄を求め二人を追ふ。
 プロットとしてはアナクロニズムの匂ひすら漂はせる、刹那的な青春犯罪映画である。個人的には、依然俄然ど真ん中のジャンルでもあるのだが。とは、いふものの、共に鉄板の適役といふところからアプローチとしては悪くないが、尺も足らず沙記と洋美に関しては消化不良、そもそも、主人公たる寛子自体に対する積み重ねが全く薄い。バジェットまで含め全方位的に振る袖に欠き、あつて然るべきアクション・シークエンスはほぼ概ね回避。かてて加へて、新潟の地に於いては爽やかに恵まれぬ天候。石を投げれば当たらうかと思はれるほどマイナス要因には事欠かないのだが、脚本・演出・俳優部、三者三様の強力があれやこれやを捻じ伏せ、徳俵一杯一杯で踏み止(とど)まつた映画は結構以上に充実して観させる。
 台詞を喋らせる喋らせないの以前に濃い化粧に表情は殆ど隠され、走る姿も銃を構へる所作もてんでサマにはならないAyaは、本来ならば一本の劇映画のヒロインを担はせるには画期的に心許なくもあれ、相方を務める松浦祐也がそこを頑丈に引張り、場面場面の体を成す。自分が轢いた沙記を病院に連れて行かうとする、間の抜けた華丸を寛子がバカにすると、華丸は「人に“バカ”つていふ時には、相手の顔を見ろ!」。すると寛子は即座に助手席から華丸の方を向き、「バ~カ」。吉岡睦雄と世志男の生け捕り屋コンビのポップな変態性も絶品だが、更に素晴らしいのは、そのファースト・カット。日々の占ひに関する生暖かくスリリングな会話をロングで交す二人の下へ、長く回したまゝ友情出演の倖田李梨が現れる件。倖田李梨は新小学生の子持ちながら殺し屋で、時流の変化を嘆きながら、昔ならば自分のところへ依頼が来たであらう仕事を、不承不承仕方なく佐野と井手に回す。これが何とも映画的なショットで、銀幕がビリビリと震へすらするのが感じられるやうな興奮を覚えた。寛子のラスト・カットに、「これで良かつたと」、「何時か笑つて思へる日が来る」といふ挿入歌のサビが重なるタイミングも完璧。唯一挽回しきれない穴は、石川雄也のミスキャストか。この人は男前とはいへいふならば優男につき、昔気質で頼りになる兄貴分、そして女からはあの人の墓になるとまでいはせる男といふには、少々柄ではあるまい。

 全般的に覚束ないAyaながら、雪が容赦なくジャンジャカ降る冬の日本海沿岸の吹雪の中を、短い制服のスカートの下から生足を覗かせウロつき回る、あるいは妥協を知らない鬼監督からウロつき回らされた決死は買へる。ハイライトメンソールを切らした瀕死の華丸に、ガムを口移すキス・シーンは、小松公典らしいさりげなくも鮮やかな伏線の張り方まで含め美しい。これで空さへもう少し晴れて呉れてゐたならばと思ふと、同じやうな状況ながら「乱姦調教 牝犬たちの肉宴」(2006)の時には微笑んで呉れた映画の神様に、今回はそつぽを向かれてしまつたバッド・ラックを嘆かざるを得ない。別れ際、寛子が手向けた上着が、強風に煽られ両手の使へぬ華丸の顔を隠してしまふ点にも、ギリギリの撮影状況をも鑑みると別の意味でも一層泣ける。
 一発外してしまつた後の残りの二発の銃弾の使ひ方に、何時までもロマンを追ひ続ける男と、継続する生活を追ひ求める女との一般的な差異を見るのは、極私的な偏向であるやも知れぬ。が、その場合にだとすると、華丸の姿との対比といふ形で初めて、Ayaが映えて来る、などといふのは重ねた牽強付会に過ぎるであらうか。


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