弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

ファーウェイ製スマホ検証

2023-09-09 08:33:14 | 知的財産権
中国半導体5G並みか 米、ファーウェイ製スマホ検証
2023/9/8付日本経済新聞
『米政府は中国の通信機器大手の華為技術(ファーウェイ)が発売した新型スマートフォンの検証を始めた。2019年から強化してきた米国の半導体技術の禁輸で、高速通信規格5Gを搭載した高性能スマホは事実上生産が難しくなっていた。
ファーウェイは自社開発の半導体を搭載し、制裁の影響を軽減している可能性がある。米国による規制の有効性にも疑念が強まりそうだ。
『ファーウェイが自社開発し、SMICが製造した「キリン」チップが搭載されていると結論づけた。
回路線幅は7nmで、5Gに相当する通信に対応しているとみられている。量産が始まっている「3ナノ」「4ナノ」に比べると2世代前とまだ差があるが、SMICは先端半導体をリードする台湾のTSMCや韓国サムスン電子に次ぐ微細化技術を進めている可能性がある。』
『今回の7ナノ品の生産では先端の露光装置の技術を使えず、歩留まりが業界水準を下回るという調査もある。効率的な生産が実現しているかは不透明だ。』
『米連邦議会では現状の対中輸出規制が緩いとの不満がくすぶる。』

私はこのブログで、湯之上隆著「半導体有事」 2023-06-04を書きました。
『半導体の微細化の閉塞感を打破したのは、波長13.5nmの極端紫外線(EUV)を使った露光装置である。オランダのASMLがEUV(1台200億円)の量産機を出荷し、TSMCは1年間に百万回の露光の練習を行った末に、2019年に7nm+というロジック半導体の量産に成功した。
インテルは、2023年に7nm+クラスが立ち上がっていない状況である。
中国のSMICは、2022年に、EUVを使わずに7nmの開発に成功した。これが、米国の「10・7」規制の直接理由である。

『2022年10月7日に米国が発表した「10・7」規制
これは、中国半導体産業を完全に封じ込めるための措置であり、半導体の歴史を大きく転換するだろう。
① 中国のスパコンやAIに使われる高性能半導体の輸出を禁止する。
② 先端半導体について、米国製の半導体製造装置の輸出を禁止し、エンジニアとして米国人が関わることを禁止する。
③ 半導体成膜装置のうち、規制に該当する装置を輸出する場合、米政府の許可を得なくてはならない。中国半導体にとっては致命傷となる規制である。
④ 中国の半導体製造装置メーカー向けには米国製の部品や材料等を輸出することを禁止する。
⑤ 中国にある外資系半導体メーカー(TSMCなど)にも規制を適用する。
この「10・7」規制により、中国は工場の新増設が困難になる。またエンジニアが派遣されないので既設半導体工場が停止する。』

今回の新聞記事では、「中国のファーウェイはは7ナノ品を用いて5Gスマホを発売した」「米国の対中輸出規制が緩いのではないか」と騒いでいます。
しかし、湯之上氏の著書から明らかなように、中国のSMICが7ナノ品の量産に成功していることは1年前にわかっており、昨年の米国による対中「10・7」規制はそれを契機として発動することになったのです。日経新聞はその点に気づいていないようです。
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北海道開拓の村

2023-09-08 14:53:33 | 趣味・読書
北海道博物館北海道博物館 2023-09-07)に引き続き、博物館の近くにある北海道開拓の村を訪問しました。
丘の上に、下写真の建物がそびえています。旧札幌停車場を模した建物で、開拓の村の出入り口になっています。

1 旧札幌停車場

入場券を購入しようとしたら、隣の人がシニアー料金で切符を買っています。聞いてみたら、65歳以上は無料だとのことです。案内板にはその点が小さくしか書いてありませんでした。あやうく一般料金(600円)で購入するところでした。
後から北海道博物館についても調べてみたら、こちらも65歳以上無料のサービスがあったようです。気づきませんでした


案内図
パンフレットによると、敷地面積は54.2ヘクタール、案内図で数えたら建物は合計で53施設ありました。その建物が広大な敷地内にちらばっています。これを隈無く見て回ろうとしたら、大変なことになりそうです。
敷地は、下の上空からの写真でわかるように、森の中を切り開いて作ったことが明らかです。

上空から

開拓の村に建っている建物は、実際の建物を収集して復元したものと、実際の建物は消失しており、開拓の村のために再現したものとが混在しています。以下には極力、再現ではなく復元したものを選び、その中でも建設年次がなるべく古いものを選択しました。

案内図を見ると、建物群は、《市街地群》《漁村群》《農村群》《山村群》としてまとまっているようです。

《市街地群》

さて、旧札幌停車場から構内に入ると、まずは左手に旧開拓使札幌本庁舎が建っています。

2 旧開拓使札幌本庁舎

先日、北海道庁旧本庁舎の工事現場を訪ねたとき、以下の表示を見ました。

左が北海道庁旧本庁舎(赤れんが庁舎)、そして右が旧開拓使札幌本庁舎跡です。開拓村に再現された旧開拓使札幌本庁舎は、赤れんが庁舎の隣に建っていたということですね。旧開拓使札幌本庁舎は、明治6年(1873)に完成したところ、明治12年(1979)に失火で全焼したということです。

旧浦河支庁庁舎は、大正8年建設、その後払い下げられ、町の会館や博物館に利用された、とのことです。

8 旧浦河支庁庁舎

旧手宮駅長官舎は、北海道で最初の鉄道として1880年(明治13)に敷設された幌内鉄道の職員官舎として、1884年に建設されました。1976年に収集されるまで、よくぞ残っていたものです。

3 旧手宮駅長官舎

旧有島家住宅は、1904年(明治37)に建設され、作家の有島武郎が住んでいたそうです。1974年に収集されました。

7 旧有島家住宅

この校舎は1908年(明治41)に建築されました。学校の創立は1905年(明治18)の北海英語学校、そして現在の北海高等学校にいたっています。

11 旧北海中学校

以上、《市街地群》のうちの一部を見て回り、続いて《漁村群》です。

ニシン漁が盛んだった積丹半島周辺地域の漁師の住宅群のようです。

33 旧青山家漁家住宅


住宅内部

《農村群》は《市街地郡》《漁村群》から離れた場所にあります。歩いて移動しました。
現在の喜茂別町で営業していた官設駅逓所とあります。札幌から遠くないようです。駅逓は、荷物の搬送や郵便・宿泊などの業務を行っていました。

38 旧ソーケシュオマベツ駅逓所

絹(糸)の原料となる蚕の卵(蚕種)をとる建物、とあります。建設は1905年(明治38)です。

39 旧田村家北誠館蚕種製造所

岩間家は、旧仙台藩亘理領の士族移民団の一員として入植しました。1982(明治15)建設です。

44 旧岩間家農家住宅

大正末期に建設された畜舎。サイロは再現です。

47 旧小川家酪農畜舎

さて、以上の《農村群》から次の《山村群》までは、遊歩道でつながれています。その遊歩道というのが、実際にたどってみたら「山道」でした。疲れてはいましたが、乗りかかった船、谷を下り、渓流を渡ってまた斜面を上がる、という道をたどりました。

遊歩道

途中、炭焼き小屋や森林鉄道機関庫などが建っていましたが、いずれも移築ではなく再建なので、ここでは割愛します。

「旧・平・造材部・飯場」と区切るようです。場所は上川郡下川町です。造材飯場は、伐木や造材に携わった山子や集・運搬作業に従事した藪出し、馬追いなどが山中で寝泊まりした小屋、とあります。この飯場には40人ほどが生活していました。移築ではなく再現ですが、挙げました。

51 旧平造材部飯場


内部

札幌農学校は、1903(明治36)に現在の北大構内へ移転し、寄宿舎も新設されました。

30 旧札幌農学校寄宿舎(恵迪(けいてき)寮)

以上、森林地帯をたどったあと、開けた《市街地郡》に戻ってきました。

旧開拓使工業局庁舎は1873(明治6)に新設され、この建物は1877(明治10)に建設されました。

国指定重要文化財 10 旧開拓使工業局庁舎

全部は回りきれませんでしたが、体力の限界です。市街地郡の半分ほどは見ないままとなりました。
ちょうど、新さっぽろ行きのバスが出発する時刻です。バスに乗って帰路につきました。
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北海道博物館

2023-09-07 17:33:25 | 趣味・読書
9月5日、午前中は札幌市に洪水警報も発令されていましたが、昼になって天気が回復したようなので、北海道博物館と北海道開拓の村を訪問することにしました。

まずは北海道博物館です。
地下鉄東西線で新さっぽろまで行き、そこからバス(10番乗り場から新22)を利用します。30分に1本出ています。

博物館正面

入場券を購入して入るとすぐ、ナウマンゾウとマンモスゾウの骨格標本が出迎えてくれます。

ナウマンゾウ
説明文によると、ナウマンゾウは、約65万年前から数万年前まで主に東アジアにすんでいたゾウで、北海道には少なくとも12万年前に本州からわたってきました。1969年に十勝地方で発見されたナウマンゾウは、ほぼ1頭分の化石が見つかり、それをもとにつくられた全身骨格がこの展示品です。


マンモスゾウ
説明文によると、マンモスゾウは、約40万年前から約1万年前までヨーロッパ、シベリア、北アメリカなどにすんでいたゾウで、北海道には数万年前の特に地球が寒かった時期に、サハリンを通って大陸からわたってきました。

私が訪問したとき、博物館はちょうどユネスコ世界遺産登録記念「北の縄文世界と国宝」公式ホームページ)を開催中でした。
代表的な展示品を以下に紹介します。

下写真の土面は、昭和61年に千歳市ママチ遺跡第310号土壙墓から出土した縄文時代晩期終末(今から2300年前ころ)のもののようです。ネットで調べると、修復前の写真しか出てきませんが、今回私が見た土面は修復がされています。ただし、右頬のシミの入り方などは一致しており、同一のものだと思われます。

重文 土面(千歳市)

   
国宝 中空土偶(函館市)           重文 遮光器土偶(複製)青森県

中空土偶。高さ41.5センチ、幅20.1センチ、重さ1.745キロ。内部が空洞になっている「中空土偶」としては国内最大級。1975(昭和50)年、南茅部町(現在は函館市)の畑で、農作業中の主婦が偶然に掘り当てました。

      
国宝 縄文のビーナス(長野県)        国宝 仮面の女神(長野県)

縄文のビーナス。高さは27cm、重さは2.14kg。1986年(昭和61年)に八ヶ岳山麓の棚畑遺跡[6]から発掘された。
仮面の女王。中ッ原遺跡出土 縄文時代後期(約4000年前) 高さ34㎝・重さ2.7㎏。

   
国宝 火炎型土器(新潟県)          土器(秋田県)(人の骨をいれて埋葬)

以上、北海道発物館の見学を終え、次の目的地である北海道開拓の村に向かいます。ちょうど、30分に1本のバスが到着する時間でしたので、バスを利用して移動しました。

次号、北海道開拓の村
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山下進著「アルツハイマー征服」アリセプト編

2023-09-04 16:48:11 | 趣味・読書
アルツハイマー病と闘う歴史について、山下進さんが「アルツハイマー征服」として書籍にしていました。このブログでも、『山下進著「アルツハイマー征服」から 2023-01-10』として紹介しました。この本は、今から2年半前に刊行され、アルツハイマー病と闘う人たちの過去からの活動をトレースしたものです。
今回、上記前回の本に新しい章を追加する形で、文庫本が登場しました。
アルツハイマー征服 (角川文庫)下山 進 (著)

『文庫版書き下ろし新章「レカネマブ開発秘話」400字×80枚を加筆!
アデュカヌマブの崩壊から、レカネマブ執念の承認まで。両者の死命を分けたのは2012年から始まったフェーズ2の設計にあった──。当事者たちの証言によって壮大な物語が完結。』
このブログのレカネマブはなぜ成功したか 2023-09-01において、今回の増補版の内容に関して言及しました。

2年半前に刊行された初版の部分について、今回読み直してみました。
ここでは、初版の内容について、(1)エーザイのアリセプトの開発物語、(2)世界のアルツハイマー病研究の進捗とその成果としてのレカネマブの開発成功まで、の2つに分け、内容を紹介しようと思います。

まずは(1)エーザイのアリセプトの開発物語です。

都立化学工業学校を卒業した杉本八郎がエーザイに入社したのは1961年でした。エーザイで研究補助の仕事に就き、夜間に中央大学の理工学部に通い69年に学士を取得しています。杉本は探索研究の世界で、30代前半に「デタントール」という高血圧の薬を開発しています。そういった実績から、次第に重要な仕事をまかされるようになりました。

エーザイの研究所は、もともと小石川でやっていましたが、82年に筑波に移りました。そしてエーザイ創業者の孫である内藤晴夫が84年、筑波研究所の研究第一部長となり、一気に組織改編を行いました。

70年代後半、「アセチルコリン仮説」が出てきました。アルツハイマー病の患者の脳内では神経伝達物質であるアセチルコリンの濃度が減っていました。この濃度を増やすことができれば、認知機能が上昇するのではないか、という仮説です。そのためには、アセチルコリンの分解を助ける酵素のアセチルコリンエステラーゼの脳内での活性をブロックする「阻害剤」を作ればよい。

アセチルコリンエステラーゼ阻害剤として、「フィゾスチグミン」「タクリン」が知られていました。タクリンは肝臓に対する毒性が強すぎました。
杉本は、タクリンの誘導体を作ることから開発を始めましたがうまくいきません。
杉本のグループが進めている別の開発薬(高脂血症に対する化合物)をラットに投与したところ、よだれが出るなどしてアセチルコリンが増えたときのような症状が出ました。調べたところ、わずかな量でアセチルコリンが増えていることがわかりました。そこで杉本は、その化合物を追いかけることにしました。
ここで、「物質をラットに与えたこと」「活性を図るメジャーとして感度の高いメジャー使用したこと」という二つのラッキーな偶然が働いていました。

このころの筑波研究所は、朝7時30分にはみな出勤して研究を始め、夜9時に研究第一部長の内藤が各室を回る(ここまでは皆帰らない)という激烈なものでした。

杉本は、出発物質から少しずつ変化した化合物を試し、700以上の合成物を試した結果、1986年3月、最初の物質の2万1千倍の力でアセチルコリンエステラーゼを阻害する物質(BNAB)にたどり着きました。しかし、肝臓で代謝されてしまいます。

臨床段階に入る薬を決める「待望品リスト」会議において、反対意見が多い中、研究開発本部長になっていた議長の内藤は、「わかった。杉本、つくりなおせ。ただし一年以内に。」と申し渡しました。

新入社員の飯村洋一が杉本のチームに配属になりました。また、分析研究所の川上善之は、コンピュータでCADDを使った立体構造解析を行っていました。川上が、700の物質のどのパラメータのどの構造だと活性が上がっていくのかをコンピュータで計算します。その結果、2つの特徴が明らかになりました。

飯村は、活性をあげるためにインダノンを入れることを考えました。試薬のリストからインダノン系を探したところ、メトキシが2個ついたものが目につきました。その試薬を用いて合成したところ、当たりでした。しかし、ラットでの実験で肝臓に対して毒性があることがわかりました。
1年の期限が迫っています。

コンピュータ解析の川上からは、いくつかの提案が来ていました。飯村は、毒性でだめになったインダノン系を使うことを考えました。飯村は、川上の提案に沿った物質を合成するための「原料」として「5,6-ジメトキシ-1-インダノン誘導体」を合成しました。これを原料として用いて目的の物質ができあがりました。
ここで飯村は、活性を測ってもらうに際し、できあがった目的の物質に加え、「原料」そのものも持って行くことを思いつきました。
評価してみると、「原料」そのものの活性が極めて良好との結果でした。毒性も楽々クリアしました。また、非常に長い体内動態を持ち、脳への移行率も最適であることがわかってきました。杉本は、この「原料」を「BNAG」と名付け、待望品リスト会議に提出することを決めました。

薬の運命は杉本チームから離れ、臨床のチームに委ねられることになりました。

このあと、立役者であった杉本が、研究の現場から人事部の閑職に左遷され、6年半もそのままになるという事態が生じましたが、ここではこれ以上触れません。

臨床試験のフェーズ1が開始されたのは1989年1月です。フェーズ1の結果、10mgを投与すると副作用が出ること、半減期が72時間と非常に長いことがわかりました。この結果から、フェーズ2では最大投与量を1日当たり2mgとすることが決まりました。
次の前期フェーズ2では、効果が得られませんでした。3mgにしても「有意差なし」でした。

エーザイは1981年、エーザイ・アメリカを立ち上げています。86年には臨床開発のための会社を立ち上げ、ここに研究者たちが集まっています。
米国「スクイブ」からローレンス(ラリー)・フリードホッフ、スイス「ロシュ」からシャロン・ロジャース。どちらも巨大製薬メーカーで臨床の最前線をはってきた科学者です。
この二人は、日本でのフェーズ2の試験が、フェーズ1での副作用にとらわれすぎていると疑いました。ロジャースは、「タイトレーション」(漸増による慣れ)で摂取量は増やせるはず、と主張しました。
しかし、日本側とアメリカの見解の相違は埋まりませんでした。

日本のフェーズ2では最大で2mgでした。そして、日本のフェーズ2のキーオープン結果は「有意差なし」でした。
シャロン・ロジャースは、内藤晴夫が5ミリ投与を認めたことがアメリカでの5mg投与の最終的ゴーサインになったといいます。そして、アメリカのフェーズ2のキーオープンの結果は、「有意に進行が抑えられている」という結果でした。

これまでの日本の製薬会社は、米国でフェーズ2が成功するとフェーズ3はアメリカの製薬会社に肩代わりしてやってもらう、「導出」という方法を採用していました。その時点で販売権をアメリカの会社なりに売り、100億円なりのお金を手にする、という方法です。
エーザイの渉外部は、今回の薬についても「導出」が当然と考えていました。米国の製薬会社「スクイブ」が、フェーズ2のデータを見て販売権を買うことのできるオプションをエーザイと結んでいました。しかしロジャースはなんとしても自分たちの手でフェーズ3を行いたく、スクイズにデータを見せるときに「生データ」を見せたのです。これだと有意差がついていることがわかりにくい。はたして「スクイブ」は「オプションを行使せず」と結論しました。
それでもエーザイの渉外部は強く「導出」を主張しました。それに対してロジャースは反論しますが、日米間のテレビ会議ではらちがあきません。そこでロジャースとフリードホッフは、直接日本に出向いて内藤晴夫に直談判することにしました。
ここで社長の内藤晴夫は、エーザイ史上、もっとも重要な決断をくだします。
『エーザイは、この薬をどこの会社にも「導出」に出さない。独自に米国の臨床第三相を行うのだ。』
こうして、米国で1993年12月、最大投与量を10ミリとし、12週間あるいは24週間投与するフェーズ3が開始しました。

ロジャースは、治験を行うプロトコルを徹底的につくりこみました。どの病院でも臨床心理士や医者がそのプロトコルどおりに治験を行い、認知症という進行の速度の測りにくい病気の進行をきちんと把握することが成否の分かれ目になると考えていました。欧州では、手順が少しでも違うと、ロジャースは非常に厳しく指摘していました。

日本では、1994年2月から後期第二相の治験が始まりました。日本も最大5mgとしました。95年3月にキーオープンしてみると、5mgでも有意差がついていないとの結果でした。
後からデータを解析してみると、正常に近い患者がかなり入っていて「プラセボ効果」が出ていた可能性が見つかりました。また、米国に比べて治験のやり方のコントロールがうまくできていないという問題が浮かび上がりました。

1995年9月、米国のフェーズ3のキーオープンです。
まず12週間調査の結果、きれいに有意差がついていました。24週間の結果はさらに良好でした。
ついに、アルツハイマー病に効く初めての薬ができたのです。

この薬についての、米国はじめ世界での販売方法です。エーザイは、アメリカの製薬会社と戦略的提携を図る方針としました。この薬には、9社が手を挙げました。ファイザーは副社長らが日本の内藤のところまでやってきました。
内藤は、「商標はエーザイでとる。売り上げはすべてエーザイに計上する。利益のみ折半する。」という強い方針で出ましたが、ファイザーはあっさりとこの案を飲んだのです。1994年10月、エーザイはファイザーとの契約に調印しました。

1996年、フェーズ1~3のすべての資料をFDAに提出しました。
1996年11月、FDAの承認がおりました。「アリセプト」の誕生です。

1997年2月、アトランタで新薬発売記念大会が開かれました。杉本はそこに招かれ開発者として話をしました。スピーチが終わると、万雷のスタンディングオベーションとなりました。
97年4月、杉本は筑波の探索研究所に副所長で戻りました。

アリセプトはまたたく間に世界中に広がり、エーザイのアリセプト年間売り上げは1000億円にものぼりました。

こうして跡をたどってみると、杉本チームでのアリセプト誕生にはいくつものターニングポイントがありました。
高脂血症用の開発薬をラットに処方したこと。ラットのよだれが出たことからアセチルコリンの増加を疑い、感度の高い評価法で確かめたこと。
その開発薬を出発点として、700以上の合成物を試し、最初の物質の2万1千倍の力でアセチルコリンエステラーゼを阻害する物質(BNAB)にたどり着いたが、肝臓で代謝されてしう。
社内で多くの反対がある中、杉本がこの薬の探索継続を強く主張し、内藤が1年間の猶予で認めたこと。当時のエーザイ筑波研究所がワーカホリック集団であったこと。
コンピュータ解析の川上善之が、解析結果からいくつかの提案を行ったこと。
新入社員の飯村洋一が、その提案を実現すべく、インダノン系を使ったこと。「原料」として「5,6-ジメトキシ-1-インダノン誘導体」を合成したこと。評価に際し、この「原料」を評価対象に加えたこと。
結果として、この「原料」がその後の「アリセプト」そのものに化けたのです。

アリセプトの治験においては、エーザイ・アメリカの優秀な科学者が手腕を発揮しました。スイス「ロシュ」から転出したシャロン・ロジャースです。
日本の治験チームが、フェーズ1での副作用からフェーズ2での最大投与量を2mgに制限する中、ロジャースは「タイトレーション」(漸増による慣れ)で摂取量は増やせるはずと主張し、アメリカでは5mgでフェーズ2の治験をしたこと。
アメリカのフェーズ2で有意差ありの結果が出た後、ロジャースらがフェーズ3もエーザイ自身が行うべきと主張し、内藤晴夫がこの方針でゴーサインを出したこと。
アメリカと欧州のフェーズ3の治験設計に当たり、最大投与量を10mgとするとともに、医療機関が治験のプロトコルを遵守するように徹底して指導したこと。

「アリセプト」の誕生とエーザイにもたらした利益は、多くの優秀な人材が要所要所で能力を発揮した、壮大なドラマでした。
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北海道大学植物園

2023-09-03 15:43:28 | 趣味・読書
《北海道大学植物園》
9月3日、起きてみたら快晴の天候です。本日は北海道大学植物園に出かけることにしましょう。
札幌駅の近くに植物園はあります。東京ドーム3個分の広さだそうです。420円で入場券を購入して入場します。

案内図
もらった案内によると、見学ルートは二つあります。
内回りルート(反時計回り)(約45分)
外回りルート(時計回り)(約1時間30分)
まず内回りを回り、その後に外回りを回ると全体をくまなく見て回れるようですが、今回は内回りだけにしておきました。

順路を回り始めて最初は、管理棟の2階に設けられた北方民族資料室です。
北海道開拓期から昭和初期にかけて収集された貴重な資料とのことです。

衣服


住居

植物園の中は、鬱蒼とした森林地帯が続きます。




内回りルートを3/4周ほど回ったところに、重要文化財群が立ち並んでいます。博物館(本館)、博物館事務所、博物館倉庫、便所などが集められています。ここでは博物館(本館)の写真のみを紹介します。

博物館

博物館の中に入ると、ガラスケースに収められた多くの標本を見ることができます。このガラスケースも、重要文化財に指定されているようです。

博物館内部
上の写真、右側の通路の突き当たりに見える黒い犬が、有名な樺太犬タロの剥製です。

下は、世界で唯一のエゾオオカミの剥製とのことです。

エゾオオカミ



こうして、北海道大学植物園を、最短の特急コースで見て回りました。

《北海道庁旧本庁舎》
北海道大学植物園の入口の近くに、北海道庁旧本庁舎(赤れんが庁舎)が立地しています。しかし残念なことに、現在大規模修繕工事中で、建物全体に覆いがかかっています(下写真)。

工事中のカバー
その横を通ったところ、内部見学ルートの入口を見つけました。ごくわずかですが、工事の状況を見ることができるようです。入ってみました。

今、写真を見て気づいたのですが、上の写真の右端の建物、私が回ってきた見学コースの建物で、ガラス張りの内部に下写真の八角塔が鎮座しているのが見えるようです。

建物のてっぺんに配置されるべき八角塔は、現在は地上に下ろされているようです。その一部分を俯瞰することができます(下写真)。

八角塔

ガラス窓を通して、屋根部分の工事の状況が見て取れます(下写真)。

工事現場

見学ルートには、様々な展示がなされています。そのうちの一つについて写真を撮っておいたので、ここに掲載します。

全体図
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レカネマブはなぜ成功したか

2023-09-01 19:19:52 | 歴史・社会
アルツハイマー病の治療薬として、まずはアデュカヌマブが登場しましたがあえなく崩壊してしまいました。次いでレカネマブが登場し、こちらは治験の結果、病気を遅らせる効果が27%認められ、最近日本で承認されました。アデュカヌマブもレカネマブも、日本のエーザイとアメリカのバイオジェンが共同開発してきた新薬です。

アルツハイマー病と闘う歴史について、山下進さんが「アルツハイマー征服」として書籍にしていました。このブログでも、『山下進著「アルツハイマー征服」から 2023-01-10』として紹介しました。この本は、今から2年半前に刊行され、アルツハイマー病と闘う人たちの過去からの活動をトレースし、アデュカヌマブの米国での迅速承認とそれに対する批判が爆発したところまでを詳細に描いたものです。

今回、上記前回の本に新しい章を追加する形で、文庫本が登場しました。
アルツハイマー征服 (角川文庫)下山 進 (著)

『文庫版書き下ろし新章「レカネマブ開発秘話」400字×80枚を加筆!
アデュカヌマブの崩壊から、レカネマブ執念の承認まで。両者の死命を分けたのは2012年から始まったフェーズ2の設計にあった──。当事者たちの証言によって壮大な物語が完結。』

アデュカヌマブとレカネマブは両方ともエーザイとバイオジェンの共同開発ですが、共同開発が始まった2014年、アデュカヌマブはバイオジェンの持ち駒、レカネマブはエーザイの持ち駒でした。従って、現時点では、バイオジェンの持ち駒だったアデュカヌマブが失敗に帰した一方、エーザイの持ち駒だったレカネマブが大成功を収めた、という図式になります。

それでは、上記増補本で、レカネマブの開発経緯をひもといていきます。
世の中には、遺伝性のアルツハイマー病に悩む一族があります。日本では青森にそのような家系があり、「アルツハイマー征服」初版でも紹介されていました。この家系に属する人は、50%の確率で子孫に受け継がれ、受け継いだ人は100%の確率で若年性のアルツハイマー病を発症します。
ストックホルムにあるウプサラ大学の研究者だったラース・ランフェルトは、スウェーデンの2つの家系に共通する新たなアルツハイマー病遺伝子を特定し、「スウェーデン変異」と名付けて発表しました。
スウェーデンの街ウメオにも、そのような家系がありました。1997年、ウメオの街の医者から手紙が届きました。調べてみると、代々、半数の人々がアルツハイマー病を発症していることがわかりました。人々を集めて血液を採取し調べたところ、新しい突然変異が発見され、「北極圏変異」と名付けられました。
その一族のアルツハイマー病は変わっていました。死亡した患者の脳には、はっきりとしたアミロイド斑がなく、ぼんやりとしたプロトフィブリルという状態でした。ランスフェルトは、このプロトフィブリルをターゲットとした治療法を編み出したようです。
2003年、ランスフェルトはこの治療法を商用化するため、パー・ゲレルフォースとともに、バイオアークティック社を立ち上げました。しかし大学発ベンチャーでお金がありません。
ランスフェルトは、「アリセプト」という最初の抗アルツハイマー病薬をつくった日本のエーザイに連絡をとることを思いつきます。彼がエーザイのロンドン研究所に連絡を取ったのが2003年6月でした。これが、2023年7月のレカネマブに至る最初の一歩でした。

ランスフェルトがエーザイとコンタクトを取り、共同研究の契約を結んだのが2005年8月でした。それから2年近くかけて、マウスでつくった抗体mAb158を人に投与できるようにしたヒト化抗体が完成したのは2007年1月です。この抗体は「BAN2401」と名付けられました。のちのレカネマブです。

2012年6月、ショバ・ダダというインド人女性統計学者がエーザイに入社しました。入社のきっかけは、やはりエーザイが「アリセプト」の会社だから、ということにあったようです。
ショバ・ダダは、レカネマブのフェーズ2の治験に、新しいベイズ統計を使った手法を取り入れました。その結果、レカネマブはフェーズ2で、10mg隔週投与が最適用量とわかり、フェーズ3での治験を進めることができました。しかしフェーズ2には時間がかかり、結果が出たのは2017年11月でした。
2019年3月にはじめたフェーズ3において、いかなる中間解析も行わないことが決められていました。結果が出るのは2022年9月末です。

エーザイの米国の本拠地、ショバ・ダダの自宅いずれも、ニュージャージー州のナトリーにあります。フェーズ3の治験結果がコードブレークされ、解析してみると、出てきた数字は文句のないものでした。18ヶ月時点で進行を27%抑制したことになります。

こうしてたどってみると、エーザイのレカネマブの成功は以下の要素に依っているようです。
1.スウェーデンのランスフェルトが、家族性アルツハイマー病の遺伝子研究から新しい治療法を見いだした。
2.ランスフェルトが日本のエーザイに声をかけ、共同研究をスタートした。
3.インド人女性統計学者ショバ・ダダがエーザイに入社し、フェーズ2,3の治験の最適設計を行った。

ランスフェルトやショバ・ダダがエーザイに招き寄せられたのは、アリセプトの存在が大きかったようです。
こうしてみると、製薬会社で世界トップ20にも入っていないエーザイが、アルツハイマー病治療薬でビッグ2(アリセプトとレカネマブ)を生み出し得たのは、何か必然があるようです。

葬り去られたアデュカヌマブですが、私は「アルツハイマー征服」の初版を読んだとき、「用量を適切量に絞った上で治験をやり直せば、効果が認められるのではないか」との印象を受けました。しかし、現時点で、アデュカヌマブ推進者はバイオジェンから消え去っており、レカネマブも完成していることから、もう復活の可能性はゼロなのでしょうね。
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