弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

藤子不二雄A氏と和代氏

2022-04-10 23:57:41 | 趣味・読書
まんが道88年、藤子不二雄Aさん逝く 最高コンビFさんの元へ
4/8(金) 日刊スポーツ
『「忍者ハットリくん」「怪物くん」「プロゴルファー猿」で知られる、漫画家の藤子不二雄A(ふじこ・ふじお・えー)さん(本名・安孫子素雄=あびこ・もとお)が7日、川崎市内の自宅で亡くなったことが分かった。88歳だった。
コンビを組んだ藤子・F・不二雄さん(本名・藤本弘=ふじもと・ひろし)が児童漫画、ギャグ路線を進んだのに対し、ブラックユーモアや社会、人間の心を深くえぐった作風と違う路線を歩み、作品が実写化されるなど晩年まで活躍した。
64年に共作した「オバケのQ太郎」が大ヒット。その後も、藤子Aさんが「忍者ハットリくん」「怪物くん」を、藤子Fさんが「ドラえもん」をそれぞれ描き、2人は藤子不二雄として児童向けのギャグ路線の大人気コンビとして認知された。一方、藤子Aさんは68年の「黒ィせぇるすまん」などブラックユーモアを利かせ、人間の心理を深掘りする大人向けの作品に取り組み始めた。作風が乖離(かいり)し始め、87年にコンビを解消も、藤子Fさんが亡くなった際は真っ先に駆けつけた。』

藤子不二雄Aさん、本名安孫子素雄(あびこ もとお)さんについて、私の一番の印象は、奥様の和代さんが脳出血で倒れ、左半身麻痺と失語症を患われていたことです。その件は、以下の書籍を読んで知りました。
妻たおれ夫オロオロ日記 (中公文庫) 文庫 – 2000/5/1 藤子 不二雄A (著)

しかし、訃報が出て以降にネットで検索したのですが、奥様の和代さんが現時点でご健在なのか否か、そして上記疾患を患われていたことについて、情報が一切上がっていませんでした。
上記の書籍についても、現時点では絶版で、高価な古本を購入するしかないようです。
そこで、亡くなられた藤子不二雄Aさんのご冥福を祈りつつ、上記書籍の内容についてこの場で紹介したいと思います。

藤子さん(安孫子素雄さん)は1934年生まれ、奥様の和代さんは2歳年下です。1985年当時、素雄さん、和代さん、素雄さんのお母さん、姪の泉さんが、自宅に住んでいました。お隣には素雄さんのお姉さん一家(松野さん)が住んでいます。

1985年の大晦日、和代さんが生田の自宅で突然倒れました。
川崎市の救急車を呼び、新宿の鉄道病院に運んでもらいました。
1月8日、鉄道病院脳外科の大塚先生のお話では、(脳出血の)出血は止まって固まっているので、開頭して塊を取ることはせず、そのままにすることとしました。出血部は1週間ほどで吸収され、それにともなって脳の浮腫もおさまり、2,3週間で気分もスッキリするとのことでした。
回復直後、左手、左足が動きません。また、発話が全くできず、失語症の状況です。
左半身麻痺ということは右脳の損傷です。言語中枢は左脳にあるので、左半身麻痺の場合は失語症は起きないか起きても軽症のはずですが、和代さんの場合は重い失語症でした。

1月20日 「ウー」と発音できるようになる(「アー」は言えない)。
1月27日 車椅子でリハビリに行く。
2月3日 ST(言語聴覚士)によるリハビリが始まる。
2月10日 杖で歩行のリハビリを始める。ハイとイイエが言える。
2月17日 杖なしで立ち、片足ずつあげる。
2月24日 OT(作業療法士)による左手の訓練が始まる。杖なしで歩ける。
4月22日 リハビリで肉じゃがを作る。
5月11日 左手が少し上がる。指はまだ動かない。
10月4日 退院
1987年
3月26日 金沢の失語症全国大会に参加して帰ってくる。
10月
「母とぼくの食事の支度や面倒をみなければいけないのだから大変なエネルギーを要する。肉体的な疲れの上に精神的な疲労が重なり、すぐナーバスになった。・・・そしてまた倒れた。」
「1985年の大晦日にJR総合病院へ入院し、十ヶ月後に退院してから、86年、87年と入退院を繰り返した。
家へ帰ると、家事の負担がドッとかかる。
母の身のまわりの世話は通いのお手伝いさんをたのんでいたのだが、食事は全て和代氏がやっていたので大変だった。ぼくはすごい偏食なので、毎日スタジオへお弁当を持っていく。限られた材料で変化を付けて毎日作らなければならない。言葉はこの頃、だいぶしゃべれるようになってきたが、話し相手である僕が、日中ほとんどスタジオへ行っているので、話し相手がいなくてストレスがたまる。それが昂じて発作を起こす・・・というくりかえしだっか。
しかし、87年の暮れ、ついに入退院生活にピリオドを打った。滝澤先生の『もう絶対に戻ってきてはダメだよ』と言われた言葉を守って、この後、入院はしなかった。」
「和代氏が脳内出血で倒れてから十年の歳月がたった。あっという間の十年だった。当初は入退院を繰り返していたが、8年前に最後の退院をしてから、あぶないときはあったが、入院はしなかった。
母は5年前に85歳で亡くなって、ぼくと2人暮らしとなった。和代氏の左手は、十年前倒れたとき以来、くの字になったまま動かない。しかし今や和代氏は右手だけでかるがるといろんな料理をつくる。口の方もほとんどしゃべれるようになった。本人は『まだまだ・・・』と手を振っているが、新宿の失語症友の会に入り、いろんな活動にも参加している。和代氏が倒れたことは不幸なことだったが、それによって和代氏もぼくも今まで知らなかったことを知った。和代氏が言葉を失うことがなかったら、絶対に失語症について関心を持たなかっただろう。
言いかえれば和代氏の病気によって、ぼくたちは多くのなにかを得たのだ。」

この書籍、本文は、安孫子さんの日記をそのまま転載する形式となっています。最初のうちはほぼ毎日の日記、その後まばらに、和代さんの話題が出ている日のみの掲載となります。書籍は1995年12月まで続きました。つまり、和代さんの発病から10年間です。

この本は安孫子さんの日記の転載ですから、日常の安孫子さんの私生活がそのままわかります。
安孫子さんは性格が人なつこいです。家族、親族とは日常的に交わっています。ゴルフが大好きです。藤子F氏とその家族を含め、仲間の漫画家や編集者、文筆業の人とも仲良くやっています。そのため、ナーバスな和代さんが1人で待つ自宅に早く帰ろうとの気持ちはあるものの、誘われると断れず、帰りはいつも深夜になります。また、和代さんの家事の一部を肩代わりするような才覚も生まれません。
左手が動かず、思うように言葉を発することのできない和代さんをしょっちゅう怒らせることになっています。
しかしこの本は、そのような安孫子さん本人の至らなさを隠すことなく、読者に伝えてくれます。

あとがきは1997年、「いつか漫画を描くことからリタイアしたら、ぼくは今まで外で使っていた時間を一切家にむけ、和代氏と2人でいろいろなことをただひたすらしゃべり合う毎日を過ごしたいと思う」と記しました。

しかし、2000年の文庫版あとがきでは、「15年目の反省」として、「今度こそ本当に(!?)和代氏とベターハーフの生活を送るようにしようと決意した」と書かれていました。文庫本あとがきから22年、安孫子さんはお亡くなりになりました。結局、安孫子さんは和代さんと2人の生活を実現することができたのでしょうか。

こちらで紹介されているこの写真は、1977年6月10日号のアサヒグラフの1ページとのことです。

p.s. 4/11
藤子不二雄Ⓐさん死去 子供から青年まで魅了し続けた異才、80歳超えても連載 2022/04/08」に、『関係者によると妻の和代さんは施設に入っているとの情報があり、藤子Ⓐ さんは一人暮らしで近所に住む親族女性が世話をするなどしていた。』と記されていました。
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ウクライナで多数の民間人が... | トップ | ウクライナ戦争とベトナム戦争 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

趣味・読書」カテゴリの最新記事