弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

建築家・早間玲子さん

2020-06-14 14:08:03 | 趣味・読書
5月18日~22日の日経夕刊「こころの玉手箱」は、建築家の早間玲子さんです。
ウィキペディアでは以下のような経歴が記されています。
1933年東京に生まれる。
1958年横浜国立大学工学部建築学科を卒業。
1959年 前川國男建築設計事務所勤務。
1966年 フランス政府・日仏工業技術交換留学生として渡仏。
1967年 シャルロット・ペリアン・インテリア設計事務所在籍。
1970年 ジャン・プルーヴェ建築設計・エンジニア事務所勤務。
1976年 早間玲子建築設計事務所設立。
2004年 フランス共和国・文化勲章、レジオン・ドヌール勲章 受賞
2011年 日本国・旭日小綬章受章

中学、高校の6年間にわたり元東京都立第3高等女学校(現・都立駒場高校)に在籍し、誇り高き女子教育を受けました。
横浜国立大学で建築を学んでいたときのこと、神奈川県立音楽堂に深い感銘を受けました。この建物を手がけた建築家の前川國男氏氏から回答を得られると考え、先生の設計事務所に入ろうと心に決めました。入所は困難を極め、門をたたいて1年後に「来年から来て」との連絡を受けました。
入所して数年を経過しても、設計を担当した建設現場に常駐させてもらえません。
ただ、「君はフランスに行くといい」という先生の言葉が耳の奥に残っており、それを実行に移しました。
フランスに渡った翌年から通い始めたシャルロット・ペリアンの仕事場(アトリエ)で、ジャン・プールヴェに初めて出会います。プールヴェの建築的思考に深く打たれ、70年にプールヴェのアトリエに入所しました。コンペで一等計画案に選ばれてから、フランス人の男性所員と変わらぬ待遇になりました。「信頼に応えようと心を尽くして仕事に励んだ。プールヴェとは日々、手描きのデッサンを通じて理解を深めた。建築現場では監理の役に就いた。」
フランスに渡ってから8年目の1974年、フランス国立美術大学建築学科の卒業同等資格を取得します。翌年、ジャン・プールヴェの温かい視線を背にアトリエを開設しました。まだ閉ざされていたフランスの建築界で、東洋人女性が独立したのです。
フランスでは書類上の契約が最も重要です。建物全体を完全無欠に表現しなければなりません。内務省管轄のセミナーに参加し、法務専門家の資格を取得する免状を受領しました。そしてまず、83年に始まったパリ国際大学都市・日本館の大規模改修工事の建築家に指名されました。
フランスのアーキテクト(建築家)は建築物に対して著作権を持つ一方、物的責任を負わなければなりません。
1983年夏、キャノンがブルターニュ地方に計画する新工場の設計依頼を受けました。日本企業に対し、労働基準局は目を光らせていました。
必要な書類を携えて緊張して担当局に出向くと、担当者は、建築家が説明に来たのははじめてだと満足し、そこから信頼関係が生まれて工場検査は滞りなく運びました。この経験に勇気をもらい、それからは行政当局訪問が習慣となりました。「誠意はどこでも通じるものだ。」

国連事務次長の中満泉さんも言っています。
『私は自分から面会を申し込んだ際は相手方に出向くようにしています。ある国の大使に「事務次長なら呼びだすのが普通ですよ」と驚かれましたが、こちらからお願いしたのだから出向いて当然ですよね。』

その後、ボージュ県のミノルタの工場、オルレアン市近郊の日立製作所の工場などを受注して、フランスで数少ない工業建築家の一人となりました。
93年に竣工した日立のコンピューター工場は、のちに日立から撤退の知らせを受けます。ほとんどの工業建築は持ち主が変われば取り壊されますが、2019年、旧日立工場の建築総合計画が、フランス共和国の「特筆すべき現代建築」の指定を受け、国の文化財として100年間、建築物の命が保証されることとなりました。

このように優れた日本人女性建築家がおられることを、私は知りませんでした。中満泉さん共々、誇りに思います。
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