弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

前宜野湾市長がケビンメア氏を名誉毀損で刑事告発

2011-11-07 22:08:53 | 歴史・社会
ケビンメア著「決断できない日本 (文春新書)」については、10月9日にこのブログで紹介しました。その中で普天間問題について
『普天間基地の近くには小学校もあり、(宜野湾)市長はいつも小学校が危ないと心配していました。日本政府はこの小学校を移転させようとしたのですが、驚くべきことに移転に一番反対していたのが市長だというのです。かれはこの小学校の危険性を政治的に利用したのです。』
と紹介しました。
この問題で、前宜野湾市長だった伊波洋一氏が、10月26日、メア氏について、名誉毀損容疑で那覇地検に告訴状を提出したというニュースが流れました(前宜野湾市長、「本に虚偽記載」とメア氏を告訴)。この中で、メア氏は読売新聞の取材に対し、「本の記述は事実で、告訴は不当だ」と語ったそうです。
同じ名誉毀損でも、民事での損害賠償請求ではなく、刑事告発だという点が変わっています。

前宜野湾市長(市長在籍2003年4月~2010年10月)が、市長時代に小学校の移転問題にどのように取り組んでいたのかという点については「事実問題」ですから、直ぐにでも真相が明らかになると思っていたのですが、その後何も報道されません。
そこで、ネットで調べることにしました。

メア氏は勝訴する!」には、『那覇支局長に着任間もない宮本雅史支局長の渾身の記事を先ずはご覧下さい。』として産経新聞の「【揺らぐ沖縄】児童の安全より反対運動優先か 基地隣接の小学校移転(2010.1.9 23:26)」を参照しています。
『米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾(ぎのわん)市)に隣接し、ヘリ墜落など事故の危険にさらされてきた同市立普天間第二小学校(児童数708人)で、これまで2回、移転計画が持ち上がったが、基地反対運動を展開する市民団体などの抵抗で頓挫していたことが9日、当時の市関係者や地元住民への取材で分かった。市民団体などは反基地運動を展開するため、小学生を盾にしていたとの指摘もあり、反対運動のあり方が問われそうだ。(宮本雅史)
普天間第二小は、昭和44年に普天間小から分離。南側グラウンドが同飛行場とフェンス越しに接しているため、基地の危険性の象徴的存在といわれてきた。
移転計画が持ち上がったのは昭和57年ごろ。同小から約200メートル離れた基地内で米軍ヘリが不時着、炎上したのがきっかけだった。
当時、宜野湾市長だった安次富(あしとみ)盛信さん(79)によると、それまでも爆音被害に悩まされていたが、炎上事故を受け、小学校に米軍機が墜落しかねないとの不安が広がり、移転を望む声が地域の人たちから沸き上がったという。
安次富さんらは移転先を探したが確保できなかったため米軍と交渉。約1キロ離れた米軍家族用の軍用地のうち8千坪を校舎用に日本に返還することで合意。防衛施設庁とも協議して移設予算も確保した。
ところが、市民団体などから「移転は基地の固定化につながる」などと抗議が殺到した。安次富さんは「爆音公害から少しでも遠ざけ危険性も除去したい」と説明したが、市民団体などは「命をはってでも反対する」と抵抗したため、計画は頓挫したという。
同市関係者は「市民団体などは基地反対運動をするために小学校を盾にし、子供たちを人質にした」と説明している。

その後、昭和63年から平成元年にかけ、校舎の老朽化で天井などのコンクリート片が落下して児童に当たる危険性が出たため、基地から離れた場所に学校を移転させる意見が住民から再び持ち上がった。だが、やはり市民団体などに「移転せずに現在の場所で改築すべきだ」と反対され、移転構想はストップした。
当時市議だった安次富修前衆院議員(53)は「反対派は基地の危険性を訴えていたのだから真っ先に移転を考えるべきだったが、基地と隣り合わせでもいいということだった」と話す。別の市関係者も「多くの市民は基地の危険性除去のために真剣に基地移設を訴えたが、基地反対派の一部には、米軍の存在意義や県民の思いを無視し、普天間飛行場と子供たちを反米のイデオロギー闘争に利用している可能性も否定できない」と指摘している。』

上記「メア氏は勝訴する!」と同じ方の「人間の盾に小学生を!普天間移設の真相(2010-01-11)」には、『昨日の沖縄タイムスの一面を飾った下記引用の写真は、普天間移設問題ですっかり時の人となった伊波宜野湾市長の得意のポーズである。』として、写真(伊波洋一宜野湾市長(左)の説明を聞く平野博文官房長官=9日午後、宜野湾市・普天間第二小学校)を掲載しています。
『伊波市長の知事選への野望はさておいて、上記のように伊波知事が普天間基地の紹介をするとき、その舞台になるのが、定番ともいえる普天間第二小学校である。
「世界一危険な米軍基地」と、そこに隣接する小学校。
左翼勢力にとってこれほど絵になるおいしい場面はない。
普天間第二小学校はいわば「米軍基地反対運動」の象徴的存在でもある。
「住宅密集地の真中にある米軍基地」と聞くと、住宅密集地に米軍が割り込んできて強引に基地を作ったという印象を受ける。
だが、実際は原野の中にできた米軍基地の周辺に、後から住民が集まってきて住宅街を作ったというのが普天間基地の実態である。』

伊波前宜野湾市長「メア氏を告訴」』には、
『去年、民主党の前幹事長岡田氏が、普天間第二小学校を移転するなら国が金を出すと発言したことがある。しかし、すぐに普天間の議員から反発が出て、発言を打ち消した。宜野湾市が移転を希望するなら国が金を出すというのは暗黙の了解あるようなものである。そして、宜野湾市の革新系の政治家が移転に反対しているのは事実である。』とあります。岡田氏が学校の移転について述べたのは2010年12月8日のようですから(岡田氏「政治の役割」 普天間第二小移転案)、伊波氏が宜野湾市長を辞めた後ですね。直後の1月には、県民の受け止めに敏感に反応したためか「移転の考えはない」と考えを翻しています(「信頼構築」空振りに 岡田幹事長来県)。

以上から、(歴代、前伊波)宜野湾市長と宜野湾第二小学校移転問題との関連は以下のような事実は明らかであるようです。

1.昭和57年(1982)頃、安次富盛信市長の時代に、小学校を移転する計画が実行の直前まで進捗しながら、市民団体の反対によって頓挫した。
2.伊波市長は、普天間第二小学校を「危険な小学校」として宣伝材料に使っていた。
3.伊波市長が、普天間第二小学校を移転しようと動いた形跡はない。
4.伊波市長辞任後だが、民主党幹事長が小学校移転について肯定的に語り、その後否定に転じた。


それでは、ケビンメア著の問題箇所と対比してみましょう。
『普天間基地の近くには小学校もあり、宜野湾市の伊波前市長はいつも小学校が危ないと心配していました。日本政府も放置できず、この小学校を移転させようとしました。
ところが、驚くべきことに移転に一番反対していたのは伊波氏でした。はっきり言って、かれはこの小学校の危険性を政治的に利用していました。この小学校がなくなれば、基地に反対する材料が減ると思い、移転に反対していたのです。普天間基地は自分を政治的に引き立ててくれる存在というわけです。「基地のない沖縄」を標榜する革新系地方政治家の正体がこれなのです。』

私が調べた範囲では、「伊波前市長は小学校が危ないと心配していたが、移転しようとした形跡はない」ということです。「伊波市長は移転に反対していた」という情報まではありませんでした。
ところで、伊波市長辞任後ですが、当時の民主党岡田幹事長が「普天間第二小学校の移転に積極的に関与する」旨の発言をしたところ、「県民の受け止めに敏感に反応」して考えを翻した、という経緯があるようです。そうとしたら、市長が伊波氏であっても、やはり地元と同じ意見、即ち「移転に反対」という意思を有していた可能性は十分にありそうです。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする