大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2013年07月22日 | 写詩・写歌・写俳

<689> 大和の歌碑・句碑・詩碑  (31)

         [碑文]         夕さらずかはづ鳴くなる三輪川の清き瀬の音を聞かくし良しも                                    詠人未詳

  この歌は『万葉集』巻十の秋の雑歌の項に「川を詠む」と題して見える2222番の歌で、万葉当時の三輪川の情景を詠んだ歌であるのがわかる。ところで、この歌の中の「三輪川」というのはどこの川を指していうのか、また、かはづとあるが、このかはづはいかなるかはづかということが思われるところで、今回はこの点にポイントを置いてこの歌碑を考えてみたいと思う。

 まず、三輪川についてであるが、この川の名は大和川が上流において佐保川と二つに分かれて東の方面に遡る初瀬川(泊瀬川・はつせがわ)の桜井市三輪の辺りを指して呼ばれる川で、言わば、吉野川の六田付近を六田の川、大和川の龍田付近を龍田の川と呼び習わしていたのと同様に、川が流れる場所の地名によって呼ばれた名であると察せられる。

 大和川は、万葉当時、交易市の海石榴市が開かれたとされる桜井市金屋付近までを本流と見なし、昔は船運が栄え、欽明天皇十三年(五五二年)、川を遡り、この地に百済の使節が訪れ、我が国に初めて仏教をもたらしたと言われる。また、推古天皇のときには遣隋使の行き来があり、人の往来でにぎわったところとして伝えられている。

 川は更に遡り、長谷寺のある初瀬のなお奥の大和高原に及び、そこを源流にしている。この金屋より上流を初瀬川(泊瀬川)と呼んだようで、三輪川と称せられたのはこの金屋付近ではなかったかと推察される。で、碑文の歌碑はこの仏教伝来の地とされる桜井市金屋の大和川(初瀬川)の金屋河川敷公園の右岸堤防上に「佛教傳来之地」の大きな石碑と隣合わせに建てられている。

                           

 次に、歌碑の歌に見えるかはづについて。古句では、松尾芭蕉の「古池や蛙(かはづ)飛び込む水の音」があり、近代短歌では、斎藤茂吉の歌集『赤光』の中の「死にたまふ母」一連中の一首、「死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる」があり、ともによく知られるところで、これらのかはづが思い起こされる。 

  かはづ(蛙)の季語は春(三春)で、この季語からすると芭蕉の句は春の句ということになる。茂吉の歌は、母の死が五月二十三日であるから、これは水田に水を張る田植えのころに詠まれた夏の歌で、ともにトノサマガエルのような普通のカエルが連想される。

ところで、碑文の万葉歌は秋を叙景して詠んだ歌であるのと、原文に河蝦の表記が見え、川津とも見える歌があることにより、普通一般に言われるカエルではなく、渓流等に棲む俳句の季語では夏(三夏)に当たる河鹿(かじか)のカジカガエルであると見られている。また、『万葉集』には山部赤人の巻三の324番の長歌などにもかはづの鳴き声が詠まれ、明日香川を詠んだこの長歌に見えるかはづも、秋の情景の中で捉えられている。

 ところが、『万葉集』には、ほかにも巻十の1868番の歌に「かはづ鳴く吉野の河の滝の上の馬酔木の花ぞ末に置くなゆめ」と詠まれ、巻八の1435番の厚見王の歌にも「蝦(かはづ)鳴く甘南備河に影見えて今か咲くらむ山吹の花」と見え、これらは明らかに春の歌である。これらの歌から総合してうかがえば、カジカガエルとされている『万葉集』のかはづは春から秋にかけて鳴くことになる。だが、カジカガエルは普通一般に春四月ごろから七月ごろの繁殖期にオスが鳴くとされ、万葉歌の解釈をややこしくしている。

  私は当初、カジカガエルが鳴くのは季語の存在とカジカガエルの鳴き声を夏に聞いた経験により夏から秋と認識していた。ので、秋歌に登場することを別段不思議に思わず、春の歌に登場するかはづの鳴き声の解釈として、「かはづ鳴く」を清らかな川の象徴的言葉、つまり、ほめ言葉と見て序詞乃至は枕詞的に用いられたものと考え、その例を咲野(佐紀野)のをみなへしに見たのであるが、実際に春に鳴くのであるから、秋の鳴き声の方が問題になるということで、この点の誤認を認めなければならない。しかし、どちらにしても、春から秋まで鳴くという点の疑問は変わらず残る。

  そこで思われるのが、『万葉集』に登場する「かはづ鳴く」という言葉が季節にかかわらず、序詞乃至は枕詞的に用いられているという見解も生じるということで、咲野(佐紀野)のをみなへしに同じく、『万葉集』におけるこの用法は千鳥を詠んだ歌にも見え、その例歌の指摘もある。例えば、「佐保川の清き河原に鳴く千鳥河津と二つ忘れかねつも」(巻七の1123番)というような歌も見える。『日本大歳時記』夏編に次のような山本健吉氏の河鹿に対する解説がある。長いが、あげてみる。

  これら(『万葉集』に登場するかはづ)をすべて河鹿とすれば、それは春から秋まで鳴くと思っていたようである。「河蝦鳴く」は「千鳥なく」とともに、次に来る「かむなび川」「佐保川」「鴨川」などの、ほとんど枕詞同様に使われ、讃め詞の決り文句であった。「宵ごとに蛙(かはづ)のあまた鳴く田には水こそ増れ雨は降らねど」(『伊勢物語』)などは、河鹿でなく田にいる蛙である。古歌には河鹿と詠んだ例はなく、蛙と詠んだ例もないので、河鹿も蛙もかはづである。江戸期の連俳書はおおむね秋に挙げ、それは明治まで続いている。秋から夏に移されたのは、大正期以降のことである。

  以上、これは決定的見解ではないが、一つの見方として参考に出来る。このような短歌における謎は五七五七七の短詩形が有する言葉の抑止によるからであるが、その言葉足らずの欠点は日本人の奥ゆかしさに通じるところでもあってプラマイが思われたりする。この序詞乃至は枕詞は柿本人麻呂の得意とするところであるが、これは語彙の少なかった時代を象徴するものと思われる。とにかく、万葉歌のかはづにおける解釈は謎で、謎としていろいろと考察してみるのが万葉歌のロマンと言えるかも知れない。

 なお、この碑を見るに、碑文には「夕さらば」とあるが、ここは、原文表記に「暮不去」とあるから、巻三の山部赤人の長歌の反歌325番の「明日香河川淀さらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに」や巻三の上古麻呂(かみのこまろ)の歌356番の「今日もかも明日香の河の夕さらず河蝦(かはづ)鳴く瀬の清(さや)けかるらむ」の歌に等しく、「さらば」ではなく、「ごとに」の意に当たる「さらず」が妥当で、「夕方になるといつも」という意に解釈され、仮定を表す「夕さらば」とは意味内容が異なって来ることが言えるところである。因みに碑の説明は「さらず」となっている。

  写真は上段左から金屋河川敷公園の馬井手橋から見た大和川(初瀬川)の三輪川と見られる付近(後方の山は外鎌山)、大和川(初瀬川)の流れ、三輪川を詠んだ万葉歌碑と「佛教傳来之地」の石碑である。   碑は語る かはづ鳴きゐし 遠き日を