大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

日ごろ撮影した写真に詩、短歌、俳句とともに短いコメント(短文)を添えてお送りする「大和だより」の小筥集です。

大和だより ~写詩 写歌 写俳~ 小筥集

2014年03月14日 | 創作

<923> 短歌の歴史的考察  (3)      ~ <922>よりの続き ~

          万葉は 万の言の葉とは言はる 万はその数 数多の意なり

 このように、短歌は奈良時代に完成をみた『万葉集』にして今にあるが、『万葉集』に載せられている歌を分類してみると、「五七五七七」の韻を踏む短歌(長歌の反歌も含む)四千二百余首。「五七五七・・五七七」の韻を基本とする長歌が二百六十余首。ほかに「五七七五七七」の韻を踏む旋頭歌が六十余首。「五七五七七七」の仏足石歌体の歌が一首で、連歌形式の歌も見られ、全二十巻、合わせて四千五百余首に及び、それはまことに膨大な歌群をもってあることが言える。

  これを歌の内容から見ると、概して、雑歌、相聞、挽歌に分けることが出来る。雑歌は政治に関わることや宴の模様、旅、自然の姿、生活の模様などが詠まれている。相聞は挨拶の贈答歌から恋歌に及ぶものまで見られ、人と人との情の交わりを詠み上げているもので、細かには正述心緒、寄物陳思、譬喩歌といった表現方法による分け方で分類されたりもしている。挽歌は人の死に対する思いの歌で、悼みに関わる悲歌に属する。これは相聞の歌に対等する愛に関わる人対人の事情によって詠まれているもので、万葉歌に色濃く見られる特徴が指摘されるところである。

  次に『万葉集』に関わった詠み人について見てみると、古いものとしては、仁徳天皇の皇后磐之媛命の歌があり、これは五世紀初めころの歌とされ、最も古く、これより古い時代における歌は『万葉集』には見られない。新しいものは天平宝字三年(七五九年)の大伴家持の歌で、『万葉集』の歌は約三百五十年の間に関わる歌であるのがわかる。

                

  歌の収集には初期の歌謡に始まり、『古歌集』、『柿本人麻呂歌集』、山上憶良の『類聚歌林』、『笠金村歌集』、『高橋虫麻呂歌集』、『田辺福麻呂歌集』などがあげられ、編纂者の家持の意向の反映が見受けられる防人の歌や東歌などが見られる。一方、『万葉集』の詠み人には天皇から防人や乞食者といった庶民まで見え、バライテイ―に富んでいるのがわかる。また、家持本人の歌が多く、全体の一割強、長、短歌合わせて四百七十三首に及び、集の後半部には家持の歌が連ねられ、さしずめ私家集的な趣が見られるのも一つの眺めになっている。

  殊に、ここで思われるのが、『万葉集』の特徴としてあげることが出来る防人の歌や東歌、または、民の歌や乞食者の歌のように、庶民の位置から詠まれた歌が見えることである。これは短歌の歴史において非常に興味深く重要なところで、その後の短歌の世界に庶民の歌と確定される歌が近代になるまでほとんど見られないということと合わせて考察されなければならないということが思われて来るところである。

  この考察については二つの点が思い巡らされる。一つは、万葉時代、即ち、奈良時代以前、庶民の間に歌を作るだけの素養及び技術が行き渡り、庶民の間でも万葉仮名を駆使して詠む者がいたかどうかということ。で、歌を素直に解釈すれば、いたということになるが、これが正しいとするならば、万葉時代以降、歌は貴族へと収斂され、庶民には発表の場がなくなったという風に論を展開しなくてはならなくなる。これは論としては厳しく思われるということが言える。

  今一つは、もともと庶民に万葉仮名を駆使して歌をつくるほどの学力、素養、及び技術などはなく、『万葉集』における庶民の歌と思われる歌は、みな万葉仮名が駆使出来たある一部の貴族及びその周辺に位置する者たちの思惑による助力、乃至は代作というような作用が働いて生れたもので、歌謡などの口承の歌は別にして、完全な庶民の歌はなく、庶民の間に歌作りが行き渡っていたということなどはなかった。このように考えると、万葉以後に庶民の歌が見られなくても、それは納得出来る。『万葉集』の庶民の歌を考えるとき、この二点が思われることになる。

  私には、防人の歌が、防人を取り仕切る兵部少輔の任にあった家持の意向が反映されたもので、その意向によって集められている点にそのカギがあるように思われる。で、私は後者の見解に傾くところである。家持が防人たちに歌を作らせたのは、歌の左注等で説明が施され、解決済みのように思われるけれども、その歌を防人本人の全き歌だと見なすのは当時の文字事情等から考えるに、甚だ楽観に過ぎると言わざるを得ないからである。

  もし、庶民に万葉仮名を駆使して短歌を作るだけの素養や技術があったとするならば、平仮名表記が可能になったその後に庶民の歌が見られなくなるということに整合性が言えなくなる。当時の庶民に歌を作る力と環境が整っていたとするならば、貴族への収斂が短歌に見られるにしても、多少は庶民の種々の歌が見えて然るべきであると思える。けれども、それが見られない。このことを思うとき、『万葉集』に見られる庶民感覚の歌が、編纂者大伴家持の意向の反映にあると見えて来るわけである。ここで、詞華集編纂者としての家持のものの考え方というか、資質というか、人となりが思われて来ることになるのである。

  今一つの例をあげると、『万葉集』巻一の50番の長歌に「藤原宮の民の作る歌」がある。この長歌は、宮の造営に当たり、近江(大津市)の山から檜の材を伐り出し、川を利用して藤原宮(橿原市)まで運ぶ厳しい労働を詠んだ歌であるが、さすが、この長歌に関しては、庶民である民には作れないということで、当時の宮廷歌人柿本人麻呂の作ではないかと言われている。この見解は正しかろうと思う。

  所謂、民になって人麻呂が詠んだ歌を労働者である民が詠んだことにしているというわけである。しかし、ここで思わなくてはならないことは、だからと言って、『万葉集』に表出されて見える当時の庶民的な生活実態の部分に信憑性がないかと言えば、そんなことはなく、仮に代作であったとしても、その生活実態の状況に沿って詠まれているものであるからは、間違いはないと見るべきで、『万葉集』は当時の生活実態を反映していると見なせるということになる。 写真はイメージで、「空」。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿