<1316> 続 我が家の雨蛙
言ふもよし 言はざるもよし 生きる身は その身のすべてを 負はねばならぬ
六月一日、我が家の二階ベランダ下の雨樋の上に、置物のように動く気配もなく居続ける雨蛙について紹介したが、雨蛙は紹介した翌日から姿を消した。少々さびしい気分になって、そのうち忘れていたが、今日、二週間近くになって帰っているのが見られた。「帰ってるよ」と妻から声をかけられ、見上げてみると、以前と全く同じ場所にうずくまっていた。妻は洗濯ものを干しに出て気づいたようである。
早速、カメラに望遠レンズを取り付けて写真に納めた。この間の写真と比較してみると、やはり周囲の色に合わせて体の色を変えているが、この間よりも全体に痩せ、肌の色艶が荒れているように見えた。姿を消していた二週間近くの間に成長して大人になったのか、それとも、年寄の域に入って衰えたか、雨蛙における姿を消していた間の時間的作用が思われた。
もちろん、この間と同じく、禅僧のごとくじっと黙して一点を見ている。何かを感じ、何かを思っているのに違いないが、そんなことはどうでもよい。とにかく、生きる身は生きるその身のすべてを負って今ここにあるということが思われて来た。この世のすべての生は修行と見なせる。そのように思えば、帰って来た我が家の雨蛙にも理解が及ぶ。時の流れの中で、この置物然としてある風体に次へのステップのための思惟の時間と見ることも出来る。とすれば、ご同輩も多かろうと思われて来る。では、今一首。
我らみな 限られし時を 生きている この時の間を いはば旅して