yoshのブログ

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松永安左ヱ衛門

2011-09-04 07:35:12 | 文化
電力の将来が重要課題になっていますが、一民間人でありながら、今日の電力供給体制の基本を創った松永安左ヱ門について述べます。

松永安左ヱ門(1875-1971)は「電力王」「電力の鬼」と言われた財界人で、美術品コレクター、茶人としても知られ、「耳庵」の号を持ちました。
明治8年に長崎県壱岐に生まれ、中学時代、福沢諭吉の「学問のすすめ」に感銘を受け、上京して慶応義塾に入学。在学中に福沢桃介と知り合いました。父親が他界した時、松永は一時帰郷し家督を継ぎましたが、その後、慶應義塾に再入学。しかし後に中退し、福沢桃介の紹介で日本銀行に入行しました。しかしその日本銀行をも辞職し、九州に帰って九州電気を設立。大正6年には衆議院議員に当選。東邦電力の副社長にも就任しました。後に東京電燈(株)の取締役に就任し、昭和2年には「電力統制私見」を発表。民間主導の電力の再編を主張したこともあって、「電力王」と言われました。「戦争に訴えなくとも日本はやって行ける」という成算を持ち、電力の国家管理に反対し続けた松永は、官僚を嫌い、ある講演会の席上、軍閥に追随する官僚達を「人間のクズ」と発言したりして大問題になったことがありました。暗殺者リストに挙がっているというような脅しも受け、遂に新聞に謝罪広告を掲載するはめになりました。
大戦の後、日本発送電会社が電力の独占体制を築こうとしたのに強硬に反対し、現在の九電力体制と電力料金の値上げを実現させました。(現在は沖縄電力を入れて十電力体制です。)電力料金の値上げは、将来の電力需要の拡大を予測したもので、電力事業の財政基盤を盤石にするのに役立ちました。松永はこうした強引さから「電力の鬼」と呼ばれるようになりました。生前から鬼と呼ばれた数少ない人物です。
松永は明るい性格で美男子でもあり、人生のピンチに幾度も遭いましたが、その度に成功のヒントを掴んでピンチをくぐりぬけて行きました。
また、欧米視察の際に知遇を得たアーノルド・トインビーの「歴史の研究」の翻訳・刊行にも尽力しました。1951年には民間初のシンクタンク、電力中央研究所も設立しました。
自身の米寿の時には、自分が設立した電力中央研究所の屋上の祝いの席に、池田勇人総理大臣のみを招くという、奇抜にして質素なものだったそうです。
大戦の後、叙勲制度が復活し、最初の勲一等瑞宝章叙勲者に推薦されました。料亭で池田総理からその話を聞くと、「人間の値打ちを人間が決めるとは何ごとか」と激高して帰ってしまいました。その後、総理から松永の説得を要請された永野重雄(新日鐵社長)に、「あなたが叙勲を受けないと制度がゆきづまり、生きている内に勲章をもらいたい人に迷惑になる」と説得されたため、不本意ながら叙勲を受けたということです。松永が他界した時、佐藤栄作内閣は政府叙勲を即日決定したものの、松永の遺族は故人の意思を尊重してこれも辞退したということです。

彼は90歳の正月に、次の一句を作っています。
 初夢や若き娘に抱きつけり

大宅壮一との対談で、「振り返ってみて90年というと長いですか、短いですか」という問い
に、「長いですねえ。もうこれ以上生きたって馬鹿らしい気がせんでもない。」と答えました。
ある日、庭を散歩中に愛犬にとびつかれて転倒し、骨折したのも原因となって、昭和46年に96歳で眠るように他界しました。
無葬式、無戒名、無叙勲の遺言を残しましたので遺族はその通りにしたということです。
所蔵していた膨大な美術品は、既に大戦の後、所沢から小田原に転居した際に、東京国立博物館に寄贈してあったということです。松永は益田鈍翁、野崎幻庵とともに小田原三茶人の一人とも言われました。
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