yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

会津藩士 高遠以来

2024-08-26 07:27:38 | 歴史
会津藩の初代藩主 保科正之公は、二代将軍徳川秀忠公の庶子であり、信濃高遠藩の藩主でもありましたが、出羽山形に移封の後、1843年に会津に入部しました。正之公は、三代将軍家光公薨去の後は、四代将軍家綱公の補弼役、事実上の副将軍として幕政に参与し、天下の安定のために献身しました。正之公がこのような生涯を送った結果、初めから高遠藩保科家に仕えて正之公とともに、山形、会津へと従った最古参の家臣とその子孫たちは、誇りをこめてみずからの家系を「高遠以来」と称しました。その中でも上士であった井深、簗瀬、田中、西郷、内原、梶原、北原、小原、三宅の九家は家老職に昇り得る名門でした。幕末に活躍した秋月悌次郎、胤永(かずひさ)も「高遠以来」の一つ、丸山家の出身でした。家職の定めで君側に侍することが多いでしたが、昌平黌に遊学して頭角を顕して舎長に任ぜられました。詩文にも優れ会津三絶の一つを残しました。また、シンガーソングライターの矢野顕子氏の母堂、鈴木淳さんも丸山家の子孫で青森市に住みました。日頃、「坐して半畳、臥して一畳」と言い、質素に暮らしたそうです。医師の夫人ながら延命のための医療を拒んで逝去しました。サムライのように壮絶な最期といわれ、会葬者に次の言葉を残しています。

       この度 寿命によりお別れする事となりました。幸い家族・友人・趣味に恵まれ楽しく過ごさせていただき感謝申し上げます。この先は宇宙の塵となり自然の大循環に組み込まれ やがて他の生命誕生に参加することでしょう。

        雪ひとひら川面に映る灯をとりに

御献花ありがとうございました。 
       
平成十三年二月十二日  鈴木淳
 
 
NHK ファミリーヒストリー 矢野顕子
         中村彰彦 「落花は枝に還らずとも(上)」中央公論新社
コメント
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