yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

 幕末の三舟

2024-08-05 06:38:19 | 歴史
山岡鉄舟 (1836~1888)
剣の達人で剣禅一如を唱えました。書も能くし、勝海舟らと徳川氏存続のために奔走し、静岡で西郷隆盛と会見、ここで山岡鉄舟の至誠が西郷を動かし、江戸城の無血開城の基をつくることになりました。維新後は明治天皇の侍従となりました。
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業成し得られぬなり。」これは西郷隆盛が山岡鉄舟を指して語った言葉といわれています。

高橋泥舟 (1835~1903))
山岡市郎右衛門の次男ですが母の実家、高橋家に養子に行きました。泥舟は後年の号です。山岡家は槍の自得院流の名家で百石取り、精妙を謳われた長兄山岡紀一郎静山とともに槍を修行し、海内無双と呼ばれ、まさに神業に達したとの評を得るほどでした。妹の英子の婿養子に小野鉄太郎を迎えましたが、これが義弟山岡鉄舟です。泥舟は明治元年の江戸城の開城後も慶喜を護衛しました。新政府任官の誘いには、
「総理大臣にならなってもいいが」
と、断ったと言います。主君の前将軍が二度と世に出られない以上、自分は官職に上り新しい栄達や叙爵を求める事はできないという姿勢を貫きました。号の「泥舟」の由来を聞かれて、自分は狸ではないので、泥で作った舟などで、うかうかと海に漕ぎ出さぬ方が良いと、「かちかち山」の例を引いてとぼけたとのことです。

木村芥舟 (1830~1901) 
江戸浜御殿奉行の子として生まれました。幕臣で名は喜毅。1856年に目付に就任し、長崎伝習所の監督となり、1859年、軍艦奉行に任じられました。翌年、アメリカへの使節派遣で、提督として咸臨丸に乗り込みました。帰国後、海軍の発展に努力するも、幕府解体とともに引退しました。「忠臣は不事二君、前朝の遺臣は新王朝に仕えず」
と、言って、新政府に任官しませんでした。
高橋泥舟と木村芥舟は風景の似た人物です。
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