山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

2004年 九州・山陰の旅 ジジババ漫遊紀行(第21日)

2015-02-21 00:08:11 | くるま旅くらしの話

<註:この記事は、10年前の旅の記録をリライトし、コメントを付したものです>

 第21日:12月7日(火)

<行程>

道の駅:耶馬トピア →(R500)→ 羅漢寺 →(R500・R212・R10)→ 道の駅:新吉富 →(R10)→ 道の駅:おこしかけ →(R10)→ 小倉東IC →(九州道)~ 布刈SA →(九州道・中国道)→ 小月IC →(R491)→ 道の駅:菊川 →(R491・R191) → 湯免温泉ふれあいセンター ~ 道の駅:ハピネスふくえ 〔泊〕         <213km>

 今日は九州を後にする日と決めている。昨夜は咳が止まらずよく眠れなくて、朝になっても頭が重い。タクジイとしてはこのようなドジは、最近では滅多にないことなのだが、何しろ眠りに就きそうになると、喉のいがらっぽさが必ずこみ上げてきて、咳になる。一種の生理現象のように起こるので、幾ら我慢してもダメなのだ。もう3日以上この状態が続いている。些かうんざりしている。

この道の駅のすぐ近くに青の洞門と羅漢寺がある。先ずは羅漢寺に参詣する。羅漢寺は昔一度訪れたことがある。大変な岩場を穿って造られた寺で、五百どころではない、たくさんの羅漢像が安置されていたのを思い出しながら、急坂の参道を登る。このお寺の開基は大化元年(645)というから、かなり古い時代からのものだ。ゆっくり登って行くと、やがて岩に穿たれた祠の中に多くの羅漢像を収めた柵が見え、たくさんのシャモジが貼られたお堂に着く。本堂はそこから更に上にある。今日は観覧料200円也を払って、本堂横からの胎内巡り、指月庵跡、庭園などを見て回った。見下ろす風景もなかなかのものだった。

この頃からタクジイの腹が急に刺し込んできて、おかしくなり出した。トイレに行きたいのだが、下の駐車場まではかなりある。途中から参詣のことは忘れ果てて奔るようにして山を下り、特急にて然るべき場所に駆け込む。参った。まだ体調が本調子でないのかもしれない。朝ごはんといっても、お腹をこわすようなものは食べてはいないのに。とにかく生理現象には敵わない。やがてクニバアも戻って来て出発となる。

青の洞門は見物せず、その傍を通過しただけ。写真をとるために対岸のR212に行き、少し休憩して、その後小倉方面へ向う。中津近くから左折してR10に入り、道なりに進めば北九州である。途中道の駅:新吉富に立寄り、タクジイは再度腹の調子を整える。豊前おこしかけという妙な名の道の駅で昼食。この二つの道の駅は、往路では駐車場が満杯で停まれなかった所。今日は平日なので大丈夫だったが、それでもかなり混んでいた。豊前の道の駅は特に混んでおり、今回も危うくパスさせられそうだった。それだけこの地区における道の駅のニーズが高いということなのか。しかし運営は下手くそだなと思った。

往路と同じ小倉東ICから九州自動車道に入る。この頃から次第に空模様が怪しくなり出し、間もなく雨が降り始めた。関門海峡を望む門司の布刈SAにて小休止し、九州に別れを告げる。海峡に架かる大橋を渡り、中国自動車道へ。下関の先の小月ICから下りてR491を少し行くと道の駅:菊川というのがあるので、そこへ向かうことにする。山陰の日本海側に雪が降ったなどというニュースはまだ聞いていないので、復路も日本海側を通って帰るつもりである。

下関に入る頃にはワイパーが利かなくなるほどのどしゃ降りとなった。まるでもう一度九州へ引き返せと言わんばかりの猛烈な降りである。すぐに小月ICを下り、R491を菊川に向う。14時半頃到着。雨は途中から次第に小降りとなり、道の駅に着く頃には止んでしまった。いわゆる驟雨という奴だったのかもしれない。小休止して、今夜の宿などに関する情報を集める。検討の結果R491にて山越えし、日本海側の油谷町へ抜け、そこから萩を目指すことにした。菊川の道の駅には、さすが下関に近い所為かヒレ酒用のふぐヒレがパックに入って売っていた。今夜はこれで温まろうとさっそく入手して出発。雨はもう大丈夫。

R491は、初めは道幅も舗装も立派で、さすが長州閥の地元の道路だな、などとやっかみながら走っていたのだが、どっこいトンでもハップンで、山道に入ったとたん、突然離合も出来ないほど細くなり、おまけに張り出した樹木の枝が、SUN号に付けてあるTVアンテナを引っ掛けて、通センボされてしまった。少し前に大型は通行不可という看板があったが、SUN号はれっきとした小型である。クニバアには「ほれ、みろ!」というトーンでバカにされるし、困惑限りなし。道幅が狭すぎて回転も出来ず暫くバックで戻って、ようやくUターンして引き返す羽目となった。不親切極まりない道路行政である。とにかく、桁数と番号が大きい国道の通行には気をつけないといかん、とは思っていたが、これほど酷いとは思わなかった。この道は今まで通行出来なかった国道の中では最低だ。先ほどまでの道路状況レベルとの落差があまりにもひどすぎる。長州閥などといっても上手い汁が吸えなければ、庶民のことなどどうでもいいというのが本音なのであろうか。こじつけても腹が立つ。

やむなく戻って県道を豊浦町方面へ。維新の志士たちの保養所だった川棚温泉入口の看板を見ながら、やがて響灘の海側へ出る。遠回りになるけど仕方がない。あとはこのR191を行ける所まで行って、適当な所を見つけて泊ることに決める。

北浦街道という、響灘から日本海に向う海岸線を走るR191を通るのは初めてである。その昔この道を吉田松陰や高杉晋作、久坂玄瑞などという人たちが何度も往復したのであろうか。同じような景色の続く中を、2時間近く走り続けて長門を過ぎると、湯免温泉というのがあった。ここでのP泊はどうかと立寄る。町が運営しているらしい大型の入浴施設があり、P泊も大丈夫な感じがしたが、クニバアが今一乗り気でないので、パスして先に向かうことにした。

間もなく萩市内である。久しぶりに明日は萩の街を歩いて見たいと思っている。萩市の郊外に道の駅があるのだが、海の傍らしいので泊るのは敬遠して、少し遠いけど福栄村にある道の駅に行くことにした。萩市内を横切って、真っ暗になった中、県道11号を直進して18時近く到着。何も見えないが、ここは国道ではないので、騒音に悩まされずに眠れそうだ。やれやれ。

【コメント】

◆この日の行程は無謀の一語に尽きます。何が無謀かといえば、風邪が完治してない上に下痢などで体調を崩しているのに、誤ったコースの選択をして、200km以上も走り続けたことです。この頃はまだ年齢的に体力があって、力任せのドライブが可能だったからなのだと思いますが、内容的には旅の楽しさを半減させるようなものです。萩市の先の方まで無理して走るのではなく、せいぜい関門海峡を渡った辺りで宿を探すような行程で終わらせるべきでした。羅漢寺のできごとは、もっと気を落ち着けて受け止め、青の洞門はパスせずにじっくりと探訪すべきだったと、その後反省した次第です。このような走り方をすると、結局地元各地の良さや特徴などが印象に残らず、ただ通過したということになってしまいます。今では、もう一度山口県の西部から北部にかけてじっくり旅してみたいと思っています。

◆前出の要注意事項ですが、国道でも道路ナンバーの大きな道は通行に支障がある場合が考えられますので、事前に情報を得ることが大事です。この時もR491には往生させられました。キャブコンで旅をする場合は、車の高さがあることをうっかり忘れがちになりますが、これも要注意です。私の場合も、何回かアンテナを壊しており、ついうっかりの失敗経験が重なっています。通行や駐車の際には、事前に周辺の様子をしっかり確認し、頭に入れておくことの大切さを改めて感じています。

 

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