山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

2004年 九州・山陰の旅 ジジババ漫遊紀行(第25日)

2015-02-25 06:05:16 | くるま旅くらしの話

<註:この記事は、10年前の旅の記録をリライトし、コメントを付したものです>

第25日:12月11日(土)

 <行程>

鳥取トヨタ社員駐車場 →(R9)→ 道の駅:村岡ファームガーデン 〔泊〕     <56km>

 鳥取市郊外生活3日目である。今日は夕方から作業に取り掛かって頂ける予定となっている。この店の方たちは、店長さんを初め、サービスフロントの方を含めて、皆さん本当に親切で気持ちがいい。いろいろ気遣いを頂いて恐縮するばかり。それにしてもこの変な夫婦、特に顔が無精ひげに埋まった爺さまの方は、一体何者だろうと思ったに違いない。店長さんから、どんな仕事をしていたのかと、恐る恐る訊かれた。社員教育のコンサルタントをしていたと答えたが、よく分らないだろうと思う。それでいいのだと思っている。

 さて、日中はたっぷり時間があるので、今日は市内見物をすることにしてバスで出発。JR鳥取駅の方へ向う。昨日買った観光案内書の付録の地図を見ながら、鳥取駅手前の久松公園で下車。ここが鳥取城の入口らしい。何しろ鳥取の市内を歩くのは初めてで、さっぱり分らない。だから少し高い所に登って俯瞰してみれば見当がつき易くなるだろうという目論見である。これは大当たりだった。

久松公園は鳥取城のお堀近くにあり、城郭の一部でもある。お城は久松山(本陣山?)という山を後にして造られていたようだ。鳥取城訪問は初めてであり、誰が造ったのか、城主が誰だったのかも全く知らない。城址に登ろうと歩いて行くと、手前に立派な洋館があった。庭も素晴らしい。何の建物だろうと廻って正面玄関の方へ行ってみると、「仁風閣」とあった。折角なので入場料を払って中に入ることにした。

この建物は、明治の終わり頃、当時の皇太子(大正天皇)をお迎えするために、元領主の池田家当主が、赤坂離宮などを設計した片山東熊博士に依頼して造らせたもので、その命名は、かの日露戦争でバルチック艦隊を撃破した元帥東郷平八郎であるというような説明書きがあった。建築のことはさっぱりわからないが、当時、天皇家の方をお迎えするのは、大変なことだったのだと改めて感じた。それにしても、池田家とはどういう家なのかと思ったのだが、鳥取は岡山の池田家と親しい親戚関係にあり、岡山よりも鳥取の方が石高が大きいというので驚いた。更に明治の池田家の当主(名前は忘れたが)は、最後の将軍徳川慶喜の何番目かの息子であり、水戸とも少なからぬ縁があることなどを知った。

それにしてもこの財力はどこから来るのであろうか。池田家は、北海道の釧路辺りに広大な土地を持っていて、農場なども経営していたらしい。そういえば北海道の旅で、釧路の市内を通った時、鳥取大通りなどと、鳥取の名のつく地名があったのを思い出す。又、昨日鳥取港の方へ歩いて行ったとき、ここから北海道の開拓に向って船出したというような主旨の記念碑があったが、そのような配下や領民の力があってこその財力だったのかもしれない。

明治や大正時代、それに昭和の戦前までは、時間的には100年前後の、ほんの少し前に過ぎないのだが、今の我々には想像も出来ないほど、人間に名札や、評価のラベルが無数に貼り付けられていた時代なのであろう。そのような時代であったからこそ、この様な天国のような建造物が残されたのかもしれない。歴史の遺品を見る時に、思いをその時代に馳せると、様々なものが頭の中を駆け巡るのだが、甘いことばかりではなく、馬の骨としてのタクジイが若干の批判を捨てきれないのは、何処かに先祖などの負け犬根性が染み付いているからなのであろうか。

 仁風閣を出て、城址をゆっくり散策する。高台から見ると、我がSUN号の居留地は遥か彼方の郊外にあるのが判る。鳥取市は今、海に向って市街が発展しているのかもしれない。古い町の方を置き去りにして開発が進められるケースが多いように思うけど、ここもその例に漏れないのであろうか。そのようなことを思った。

 そのあと、駅まで歩いたのだが、小さなアーケードのある商店街は、土曜でも人は少なく、シャッターを閉じたままの店が目立った。ここにもやはり商業機能の、駅前と郊外の逆転現象が起こっているのであろう。昨日のジャスコの賑わいとは対照的である。車をベースにした社会では、駐車場がないのは致命的だ。一抹の寂しさを感じながら、昨日買ったガイド書に載っている蕎麦屋を探したのだが見つからない。それでは久しぶりに寿司でも食べるかと、同じ本に載っている駅前近くの寿司屋に入る。値段のわりには、味の方は今一だった。板前さんが、何か屈託がるのか元気がない。有名人のサイン入り色紙などがやたらに貼ってあったが、相変わらずつまらない。名誉のために店の名前は書かないことにしよう。

 帰りはバスでと、バスセンターへ行く。あまり人がいない。よく見ると僅かな旅行者らしい人を除くと、バスを待っている人の9割以上が年寄りか障害者である。要するに車の運転が出来ない人たちだ。今日は土曜日で、通勤・通学がなく、又時間帯としてもあまり人が動く時ではないので、それらが目立つのかもしれないが、改めて今の世の中の断片を垣間見た気がした。これでは、バス会社の経営は、慈善事業に近いものとならざるを得ないであろう。人の生活の仕方が、自分が考えている以上に大きく変化してしまっていることに気づき、愕然とした思いであった。

16時過ぎ車に戻る。既に作業に取り掛かっているらしく、SUN号はドックの中だった。17時半過ぎ、ようやく完了。全力を挙げて取り組んで頂いたサービスフロントの方、店長さん等々にお礼を言って出発したのは18時少し前だった。もう夜になっている。

 思わぬ出来事で2泊3日の足止めを食ったが、本当に良い思い出となった。普通だと困ったことなのだが、我々は特段の予定のない旅なので、このようなときにはそれを逆利用して楽しんでしまえばいいのだ。しかし、事故や故障は禁物である。この点普段の車の手入れや、異常時の判断や行動のあり方について自戒が必要だと、改めて反省した。

 さて、これからどうするか。とにかく至近の道の駅に行って泊ることにする。車の方は変な音もなく、ブレーキも滑らかになって快調だ。1時間ほど走って道の駅:村岡ファームガーデンに到着。今日で5日も風呂に入っていない。ヒゲも伸び放題だ。毎日、ちゃんと着替えだけはしているので、不潔にはなっていないと思うけど、明日は必ず温泉に入り、その後で大田さんと会おうと決め、寝床にもぐりこむ。

【コメント】

◆第二日は、鳥取市の中心街への探訪となりました。やはり、せっかくのチャンスなので、鳥取市がどういうところなのかを見てみたいという願望大だったのです。何しろこのようなことがなければ、鳥取といえば砂丘と大山くらいしか出向ける所はないというのが普通の観光客並みの発想だと思いますし、自分たちも又、この当時はさほど変わらない考えだったのです。

結果的には、幾つかの大切なことを学び、とても良い経験でした。鳥取県は、全国一の人口の少ない県であり、それゆえに現代では誤解を受けるほど人の住まない、住みにくいエリアだなどと思われがちですが、歴史的に見ればむしろ文化の発信地に近い場所であり、人が住む心の豊かさのようなものが感ぜられる場所なのです。今度訪ねる時は、伯耆地方の歴史などを学んだ上で、鳥取市を中心にのんびりとした探訪を楽しみたいと考えています。

◆修理のその後は、同じ箇所での車のトラブルは一度も起こっていません。SUN号は間もなく走行20万キロに到達しますが、至って健康で、老化による小さな不具合が時々起るのは致し方ありませんが、それ以外は満足レベルで動いてくれているのを感謝しています。時々、旅車のことを、まるで自分の車であるのを忘れたかのように、クソミソに悪く言う人を見かけますが、その実態はむしろ逆なのではないかと自分などは思ってしまいます。自分の身体と同じように、旅の友としての車のこともしっかり管理することが、旅をする人には求められているのだと思います。

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