山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

2010年西日本への旅 でこぼこ日記:第16日

2010-12-14 05:10:21 | くるま旅くらしの話

 

16日<11月7日(日)>

 

行 】 道の駅:アグリの郷りっとう → (R8・K55) → 栗東市郊外コインランドリー → (K55・12・R307) → 紫香楽宮跡地(滋賀県甲賀市・信楽町) → (R307・R24) → 平城京跡見物(車窓より)(奈良県奈良市) → (R24・25・169) → 大神神社(奈良県桜井市) → (R169・166・370) → 道の駅:宇陀路大宇陀 (奈良県大宇陀市)(泊)  <121km>

 

 遅い到着だったので、周辺の状況が判らないところがあった。朝、起き出して周辺を少し歩いてみた。市街地なのだけど、この辺りの周囲は畑と田んぼばかりのようで、賑やかなのは国道の両側の50m以内くらいだけのようである。野菜の栽培などが盛んなように見えた。道の駅では地産品が売られているようなので、9時の開店が楽しみである。このあたりだと、黒豆の枝豆がまだあるかもしれない。それが楽しみである。

朝食を終え、後片付けなどをしていると、外に出ていた邦子どのが戻ってきて、売店に野菜などを運んできていた農家の人に声を掛けて黒豆のことを訊いたら、もう先週で終っているという情報を持ち込んできた。なあんだ、もうダメなのかとガッカリしたのだったが、しばらくすると、その話をしたらしい人が自転車でやって来て、片手に引き抜いた枝豆を2~3株持って来られたので驚いた。自分は黒豆の枝豆の大ファンなのだという話をすると、その方は、少し固くなっているかもしれないけど、まだ食べられると思うからと、無料でプレゼントしてくれるという。それではあまりにも申し訳ないと、とっさにポケットにあった300円を気持ちですから受け取って欲しいとお願いした。後でよく考えると、300円ではあまりにも少な過ぎたのではなかったかと気づいた。いやあ、感激だった。

確かに頂戴した枝豆は、見たところはもうすっかり黄色っぽくなっていて、普通の人ではとてもそのまま食べるなんて思わないに違いない。しかし、自分の場合は、大丈夫なのだ。殻が固くなっていても、完熟して固くなるにはまだ時間が掛かるので、その前であれば、少し時間をかけて茹でれば、豆は柔らかくなるのである。

黒豆の枝豆を知ったのは、関西方面へ旅をするようになってからだから、6,7年前だろうか。最初にそれを見つけたのは、確か夜久野の道の駅(福知山市)だったと思う。枯れた黄色っぽい枝豆のようなものが、野菜売り場の端の方に置いてあったので、これは何だろうと目に留まったのだった。試しに買って茹でて食べてみたら、何とまあ、これが超美味だったのだ。何しろ10月の下旬近くであり、この季節に関東では枝豆なんてとても考えられない。それを知って以来、関西ではその他奈良県でも同じ枝豆が道の駅の売り場に並べられており、それを買うのが楽しみとなっていたのだった。

今年は、来るのが少し遅かったので、どうなのかと心配していたのだったが、ともかく今日ここでそれにありつけたのは真に幸いだった。邦子どののおしゃべりの偉力を目の当たりにしたのだった。頂いた枝豆から豆の莢を外す作業は、その後20分ほど掛かったけど、嬉しさに溢れていたので、ちっとも煩わしくも面倒でもなかった。大き目の笊に溢れるほどの量となり、こりゃあ買ったら大変な値段になるなと、改めて運の良さを思ったのだった。

 嬉しい枝豆騒動が終るころに店が開店したので、ちょっと覗きに入る。野菜類にはあまり関心がなく、好奇心はそれ以外の地産物に向かう。あった!赤こんにゃく。これは関東にはない。2つほどゲット。もう一つ感動したのは、たった千円で念願の鮒寿司が売られていたことだ。昨日の鮎家では、最低でも5千円近い値段なのである。一度食べてみたいと思っていたのだが、幾らなんでもそんなに高いものを食べるつもりはない。もし食べてみてガッカリするような味だったら、取り返しがつかなくなるではないか。しかし、小さくてもまあ千円くらいなら、我慢が出来るというものである。ということで、これは邦子どのの力強いおことばで、2個も買って貰ったのだった。この先の夕食などが楽しみである。

朝からいいことばかりが続いて、今日はこの先も何かいいことがあるのかもしれないなどと、ちょっぴり浮ついた気分になった。さて、今日の予定といえば、まずはどこかで洗濯をしたあと、奈良の方面へ向かうことにしている。コースは昨日引き返した道をもう一度辿って信楽(しがらき)に向かい、山道を通り抜けて木津川に出て、その堤防にある道を奈良市方面に向かうつもりである。奈良エリアでは、最終的には大淀か大宇陀の道の駅に泊ろうと考えている。気がつけば旅ももう16日目となり、最終期間に入りつつあるのだった。これからは、走りの多い日が続くことになる。

まず洗濯だが、昨日道の駅:こんぜの里りっとうから引き返した道の途中にコインランドリーが2つあるのを見つけており、その一つにすることに決めている。これは邦子どのの世界なので、自分としては洗濯物を運ぶくらいの仕事しかない。9時半に目当てのコインランドリーに着いて、洗濯が終了したのは11時少し前だった。この間、自分はヒマなので、今朝頂いた枝豆を茹でることにした。コンロを外に出して大型の鍋にほぼ満タンの枝豆を入れて茹でる。傍を通る人は、何をしているのだろうと不思議に思うかもしれない。しかし、歩いて通る人は殆どいない。今の世の中は、人が歩いているのは都会の真っ只中だけのようだ。外を歩かない人間の世界なんて、いずれは自然から阻害され、人類は酷いしっぺ返しを受けるに違いないと思う。自動車は便利だけど、その依存症になってしまうと、本末転倒の結果となるのだと思う。くるま旅においても、車に乗ってばかりいないで、毎日たっぷりの歩きを取り入れることが大切なのだと思う。(又、話がずれてしまった)

洗濯終了の後は、昨日来た道を行って、道の駅:こんぜの里りっとうを通過し、やがて信楽町へ。「こんぜ」とは何のことだろうと、昨日道の駅の人に訊いたら、この近くに金勝寺(こんしょうじ)というお寺があり、それからきたのではないかという話だった。地名のいわれは古老にでも話を聞かないとわからないけど、今の時代古老などというお人がまともに存在するのだろうか。老人は皆化石扱いである。斯くいう吾も。

信楽では、今日はせっかく来たのだから、紫香楽宮跡へ行くことにしている。狸の焼き物は通過しながら見るだけで良い。というのも、先日TVで奈良の東大寺の大仏建立のドラマを放映したときに、東大寺の前に大仏を造ろうとした場所があり、それが紫香楽宮だという話があった。その後地図を見ていたら信楽町に紫香楽宮跡というのが書かれており、機会があればそこへいってみようと思っていたのである。少し道に迷ったけど、その跡地近くの駐車場に着いて車を停める。

奈良の東大寺の大仏建立よりも前にここに都を作り、大仏を造ろうとしたというのであるから、もしそれが実現していたならその後のこの地は大きく変わっていたに違いない。歴史のタラレバは、ゴルフのタラレバと同じ様に何の価値もない話だけど、想像心を掻き立てられるのは、人間の常であるようだ。この跡地を取り囲む地形の全体がよく判らないため、その遺跡としての都のスケールの大きさなどの見当がつかないのだが、実際に歩いて見ると、思っていたよりはかなり規模の小さな感じがした。説明板によると、どうやらここは都としての住まいというよりもお寺であったということらしい。その名を甲可寺というとのこと。1300年近くも昔の本当のところは判らないようだ。推定するしかないということであろう。

 

伽藍跡の礎石などを見学しながら、奈良時代あたりの最高権力者集団の生き様というか、統治の姿勢というものが、何を拠り所にしたものなのか、やはり理解し難いなと思った。ここでの大仏建立を中止したのは近くの山での山火事が頻発したというようなことがその理由だったと書かれていたが、天災地変や疫病などに対する人間としての恐れが、次々と先の思い付きを取り止めさせ、又新しい思いつきを生み出したということなのかも知れない。2~3年の間に都と呼ばれる権力者の住いが次々と変わるなんて、現代では想像もつかないことである。ここはいわばそのような往時の権力者のリーズナブルな気まぐれの犠牲となった地であるとも言えるのかもしれない。馬の骨としての感想は、いつもの通りややネガティブである。

奈良時代のことを現代の感覚でコメントすることはナンセンスだとは思っている。推定では奈良時代頃のわが国の全人口は6~700万人ほどだったというのを読んだことがある。現代のように国の隅々まで電気が通じ、ラジオやTVが見聞できる環境ではない。未開地ばかりだったといって良い時代だと思う。そんな中で、都というものの持つ意義というのは、現代の都会などとは違った、国家そのものの求心力の核となったのであろう。それゆえ、往時の聖武天皇という方は、その地を定めるのに苦心されたに違いない。同情できる部分もあるのではある。

一通り史跡を見て回った後は、丁度昼時となったので、車の中で食事とする。1時間ほど休んで、これからは一挙に奈良まで走るつもりである。13時少し前出発。信楽の町を走るR307の両側には、信楽焼きの狸たちが、大小さまざまな大きさやスタイルで通る車を迎え、見送ってくれている。毎日どれくらい生産されるのか知らないけど、それほど買い手がつくわけではないだろうから、このまま行けば在庫は増える一方で、その内に店の外は狸で溢れてしまうのではないか、などと愚にもつかない思いを巡らしながらの運転だった。

 しばらく山の中の道を走って、宇治田原町に入る。ここいら辺は宇治茶の産地のようで、左右に茶畑が多い。綺麗に刈り込まれた茶の木の畝が、丘を幾筋も彩っていた。茶の名産地といわれる所は、皆共通した地形のようだ。小高い山に囲まれた谷を川が流れており、夜間は気温が下がるけど日中は日当たりの良い、そのような自然環境である。朝方には川霧が谷を白く包みやがてそれが晴れて穏やかな日差しが谷一帯に降り注ぐような、そのような場所に格別の銘茶が生み出されるようである。この地もそれに適う地形のようだった。

坂を下ると、ようやく平地が開けてきて、やがて木津川の堤防にぶつかり、これを左折すれば奈良に向かうR24となる。これをどこまでも南下すると1時間ほどで奈良市内に入る。奈良市内に入って、ちょっこし平城宮跡を覗いて見ようと思った。もし駐車できるような場所があったら、少し歩いて見たいとも思った。しかし、行ってみると、駐車場どころではない。よく考えれば今日は日曜日なのである。竣工なったばかりの大極殿や朱雀門を見ようと、その広大な敷地の周辺は車と人で溢れ返っていた。人間誰も皆思いは同じで、新しいものには一日でも早くお目にかかりたいという本能のような心理が働くのかも知れない。かく言う自分だって同じ様なものだ。イヤア、それにしてももの凄い人、人、人である。これじゃあ到底見物なんて無理だと思った。それどころか渋滞から抜け出すのだって難儀な感じだった。とにかく少し近づいて、車の中からでもいいから、写真くらいは撮らせて貰おうと周辺を一回りする。渋滞のおかげでそれは可能だった。

喧騒地帯を抜け出した後は、邦子どのがいつも行っている桜井市の大神(おおみわ)神社脇の、古布や手芸品などを扱っている店に行くことにする。今回は奈良市街は素通りすることにした。15時40分大神神社の駐車場に到着。邦子どのが店に入れば1時間くらいは必要なので、この間、大神神社に参詣する。ここは毎年歩いている山辺の道の石上神宮に向けての出発点でもある。今回は山辺の道を歩くのは止めることにしている。大神神社は我が国の中でも古く、伝統歴史のある神社の一つである。三輪山山麓の鬱蒼と繁った大木の中にあり、ここに来ると真に穏やかな心に満たされるのである。今日は七五三も近いのか、小さな子供連れの参詣者が目立った。1時間近くかけて境内をゆっくり散策し、車に戻る。間もなく邦子どのも戻って、今日の宿は大宇陀の道の駅にすることにして出発。

17時近くになり、もう辺りは暗くなりだしていた。本当は大宇陀ではなく明日香の先の吉野川近くにある大淀町の道の駅に行こうと思っていたのだが、今朝の騒動で、黒豆の枝豆はもう時期を外れてしまっていることを知ったので、行先を近い方の大宇陀にしたのだった。大淀の道の駅の野菜売り場には、新鮮な地元の野菜が溢れんばかりに並べられるので、いつも黒豆の枝豆はそこで求めるようになっていたのだったが、今年は真に残念である。

大宇陀に着いた頃は既に暗くなっていた。日が暮れるのが次第に早くなり、今はもう17時になれば日は沈んでしまうようだ。空模様が少し怪しくなっており、小雨のようなものが落ちてき出した。今夜は雨になるのかもしれない。結構走り回り、歩き回ったので、温泉にでも入りたいと思ったが、今日は休日なので、恐らく又大混雑だろうと、入浴よりも早寝の方を選んだのだった。大宇陀も気に入りの場所であり、いつもの場所に車を留め、枝豆を味わいながら一杯やって夕食。そして長い夜を迎える。

 

<※字数制限のため写真が掲載できませんでした>

 

 

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