山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

大山千枚田を見に行く

2010-05-17 03:25:53 | くるま旅くらしの話

連休の始まる前の頃から、家内が棚田を見に行きたいといっていました。棚田は、全国にまだ著名なものが幾つか残っていますが、特定の場所を除いては次第に耕作が放棄され消えてゆく運命にあるようです。関東のエリアでは、山間部に行けば規模の大小を問わなければまだ現役の田んぼが幾つも活躍しているのかも知れません。家内が見に行きたいという棚田は、東京から一番近いと言われている千葉県鴨川市にある大山千枚田と呼ばれる所です。

この棚田は、今年の2月初めに房総の花を見に行った時に、ふとしたことで知り訪問した場所なのですが、丁度今頃は田んぼに水が入って、田植えが始まる頃であり、家内は田んぼに水が入って早苗がまだ植えられない景色を、夕陽や朝日などと一緒に写真に撮りたかったらしいのです。というのも、以前新潟を訪れたとき、越後平野の水を張った田んぼに沈む夕陽を撮り、それが想像していた以上に美しく感動的な光景だったものですから、今度は棚田でそのような景観をものにしたいと願ったようでした。

しかし、連休前は他の用事もあり行くことは叶わず、連休中はその休みの期間を利用して棚田の田植えが行なわれていると思われ、行けば恐らく観光客などの野次馬の混雑で写真どころではなくなってしまうと恐れをなし、行くのを控えていたのです。というわけで、連休の明けた6日に満を持しての出発となったのでした。

途中寄り道をしながら大山千枚田に着いたのは16時ごろでした。再訪した千枚田には、予想通り田んぼにはもう苗が植えられており、それらが輝く水に晴れがましく背伸びをしている感じがしました。県道から千枚田に向かう入口辺りには、昨日まで使われた駐車場用地があり、もし連休の混雑の中に来たなら、ここに車を置いて1km以上もの坂道を歩かなければならなかったと、今日来たことの正しかったことを確認した次第でした。今の時代はひょんなことで人がやたらに集まることがあり、棚田の田植えもネットやTVニュースなどで報道されると、大混乱となるような異常な世の中となっています。真におかしな世の中です。ま、我々の方も、よく考えれば野次馬の片割れには違いないのですから、あまり偉そうなことを言うべきではないのかも知れません。

ところで、棚田の魅力というのは何なのでしょうか。誰しも思うのは、その景観に日本の原風景の一つが潜んでいるのを本能的に感ずるからではないかと思います。田んぼの景観というのは、それがどのような場所であっても、この国を支えてきた力の根源を含んでいるのではないかと思っています。その中で、棚田は山に囲まれた斜面に水を張って、耕して天に至るという人間の英知というか、生きるための知恵を証明している景観のように思います。

   

大山千枚田の景観。大小375枚の田んぼが標高90~150mの山の斜面に東西600mにわたって広がっている。千葉県とは思えない景観である。

「耕至天」という言葉がとても好きで、私の心の座右の銘の一つとなっていますが、棚田はその証明そのもののように思っています。

田んぼによらず、あらゆるものは耕して、耕し続ければ、やがては天に届くという考え方は、人間を生きてゆく上でとても大切なものではないかと思っています。何かを、工夫を加えながら一つひとつコツコツとやり続けて行けば、必ず輝く天に届くという事実は、多くの先人が果たされているところです。人が天国に行けるのは、そのような志や努力があって初めて叶うものなのかも知れません。

棚田の景観が人の心を和ませ、癒すのは、恐らく縄文・弥生の太古の時代から営々と続いてきた人間の耕作の歴史の、一つの結晶を示しているからのような気がします。

私は、農業というのはとても大切で重要だと考えています。といっても、それは単なる食糧供給の手段としての耕作や酪農などにあるのではなく、植物との共生の中から生命をつなぐ糧を得る仕事という意味において重要と考えています。現代の農業に対していちゃもんをつける考えなど全くありませんが、私の好きなのは農業などという言葉ではなく、百姓という言葉なのです。百姓仕事と言った方が正しいかもしれません。一般に百姓といえば、バカにされる雰囲気があり、あまり頭も使わずに毎年天気に揺さぶられながら、同じことを繰り返して行なっている仕事のようなイメージがありますが、それはとんでもない人間失格の破滅的な受け止め方のように思います。百姓がバカにされ軽視されるようになったのは、江戸時代を含めた封建社会の搾取されっぱなしの長い歴史の一面からの評価や、一所懸命働いても報われることの少なさをバカバカしいと思うようになった、戦後の効率主義中心経済発展の結果に起因しているような感じがします。

私は百姓という仕事は、決して毎年同じ場所で、同じ時期に、同じような耕作を行い、種をまき、除草を行い、収穫作業することの繰り返しの仕事だとは思っておりません。その中には先人の作って来た百姓仕事の叡智が籠められており、それを更に向上させようとする様々な工夫が籠められているのだと思っています。棚田というような山の急斜面で水田耕作を行うという技術は、大発明であり、先人の英知の結晶の一つといっても過言ではないと思っています。

   

大山千枚田の景観。上の写真の反対側から見たもの。水を張った田んぼの輝きが美しい。棚田は、見上げれば先人のパワーが、見下ろせば先人の達成感の喜びを実感できるような気がする。

百姓仕事は効率主義には馴染まないものをたくさん含んでおり、それが現在の農業をなかなか活性化させない要因となっている感じがします。しかし、今まで全盛を誇っていた効率至上主義の大量生産・大量消費社会の負の遺産が、環境問題として世界中を震撼させ始めているこれからの時代においては、植物や動物たちとの共生をベースとする百姓仕事は、必ずや見直されるに違いないと思っています。もしそれができなかったら、この国は、この地球上の世界は、遠からず滅びることは必定ではないかと思っています。科学万能という人類の思い上がりは、人間が生き物であるという限界を超えて一人歩きを始めたときから、滅亡に向かうに違いないように思うのです。

閑話休題。話が少し大きくなり過ぎました。元に戻せば、棚田の素晴らしさをホンの少し述べただけに過ぎません。大山千枚田は、現在保存会によって運営されているようで、375枚の田んぼが現役で活躍しているとのことでした。この他にも耕作可能な田んぼがまだ幾つか残っているのかも知れません。くるま旅をしないのであれば、棚田のオーナー制度に賛同して参加を申し込みたいところですが、今はくるま旅を優先させたいと考えていますので、耕作に励まれる皆さんに心からエールを送りたいと思います。そして時々お邪魔をしてこの景観を味わせて頂きたいと思います。

※ 大山千枚田:棚田倶楽部の所在(千葉県鴨川市平塚540)

コメント
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