山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

九州・山陰他エリアくるま旅でこぼこ日記:第21日

2010-05-01 04:49:27 | くるま旅くらしの話

〔これは6年前の記録です〕 

第21日:12月07日(火)

行程:道の駅:耶馬トピア~羅漢寺~道の駅:新吉富~道の駅:おこしかけ~布刈SA~道の駅:菊川~湯免温泉ふれあいセンター ~道の駅:福栄 〔泊〕  <213km

今日は九州を後にする日と決めている。昨夜は咳が止まらずよく眠れなくて頭が重い。拓としてはこのようなドジは最近は滅多にないことなのだが、何しろ眠りにつきそうになると喉のいがらっぽさが必ずこみ上げてきて、咳になるのだ。一種の生理現象のように起こるので、幾ら我慢してもダメなのだ。もう3日以上この状態が続く毎夜なのだ。些かうんざりしている。

この道の駅のすぐ近くに青の洞門と羅漢寺がある。先ずは羅漢寺に参詣することにする。羅漢寺は昔一度訪れたことがある。大変な岩場を穿って造られた寺で、五百どころではないたくさんの羅漢像が安置されていたのを思い出しながら、急坂の参道を登る。このお寺の開基は大化元年(645)というから、かなり古いお寺だ。ゆっくり登って行くとやがて岩に穿たれた祠の中に多くの羅漢像を収めた柵が見え、たくさんのシャモジが貼られたお堂に着く。本堂はそこから更に上にある。今日は観覧料200円也を払って、本堂横からの胎内巡り、指月庵跡、庭園などを見た。見下ろす風景もなかなかのものだった

   

羅漢寺山門。この後も岩の露出した急崖を登って羅漢様に会いに行くこととなる。羅漢寺は昭和18年の火災で大半を焼失したというが、この山門は幸いに焼火を免れたとのことだった。

   

鎮座瞑想する夥しい石の羅漢様たち。たくさんあって、とても一つひとつを丹念に見る余裕が無い。それぞれには様々な人生の思いが籠められているのだと思う。

この頃から拓の腹が急に刺し込んできて、おかしくなり出した。トイレに行きたいのだが、下の駐車場まではかなりある。途中から参詣のことは忘れ果てて山を下り、特急にて然るべき場所に駆け込む。参った。まだ体調が本調子でないのかもしれない。朝ごはんといっても大したものは食べていないのに。とにかく生理現象には敵わない。やがて邦子どのも戻って出発。

青の洞門は見物せず、その側を通過しただけ。写真をとるために対岸のR212に行き、少し休憩して、その後小倉方面へ向う。

   

菊池寛の小説「恩讐の彼方に」で有名な青の洞門。この急崖にたった一人で、鑿に人びとの安全な通行のための願いを籠めて洞門を掘り進めたという、その男の思いは、今でも伝わってくるものがあるような気がした。

中津近くから左折してR10に入り、道なりに進めば北九州である。途中道の駅:新吉富に立寄り、拓は再度腹の調子を整える。豊前おこしかけという妙な名の道の駅で昼食。この二つの道の駅は、往路では駐車場が満杯で停まれなかった所。今日は平日なので大丈夫だったが、それでもかなり混んでいた。豊前の道の駅は特に混んでおり、今回も危うくパスさせられそうだった。それだけこの地区における道の駅のニーズが高いということなのか。しかし運営は、その内容からは下手くそだなと思った。

往路と同じ小倉東ICから九州自動車道に入る。この頃から次第に空模様が怪しくなり、雨が降り出した。海峡を望むめかりSAにて小休止し、九州に別れを告げる。関門海峡に架かる大橋を渡り、中国自動車道へ。下関の先の小月ICから下りてR491を少し行くと道の駅:菊川というのがあるので、そこへ向かうことにする。山陰の日本海側に雪が降ったなどというニュースはまだ聞いていないので、復路も日本海側を通って帰るつもりである。

下関に入る頃にはワイパーが利かなくなるほどのどしゃ降りとなった。まるでもう一度九州へ引き返せと言わんばかりの猛烈な降りである。すぐに小月ICを下り、R491を菊川に向う。14時半頃到着。雨は途中から次第に小降りとなり、道の駅に着く頃には止んでしまった。いわゆる驟雨という奴だったのかもしれない。小休止して、今夜の宿などに関する情報を集める。検討の結果R4911にて山越えし日本海側の油谷町へ抜け、そこから萩を目指すことにした。菊川の道の駅には、さすが下関に近い所為かヒレ酒用のふぐヒレがパックに入って売っていた。今夜はこれで温まろうとさっそく入手して出発。雨はもう大丈夫。

R491は、初めは道幅も舗装も立派でさすが長州閥の地元の道路だななどとやっかみながら走っていたのだが、どっこいトンでもハップンで、山道に入ったとたん、突然離合も出来ないほど細くなりおまけに張り出した樹木の枝が、SUN号に付けてあるTVアンテナを引っ掛けて通センボされてしまった。この道に入る少し前に、大型は通行不可という看板があったが、SUN号はれっきとした小型である。邦子どのには「ほれ、みろ!」というトーンでバカにされるし、困惑限りなし。道幅が狭すぎて回転も出来ず、暫くバックで戻って、ようやくUターンして引き返す羽目になった。不親切極まりない道路行政である。とにかく桁数と番号が大きい国道の通行には気をつけないといかんとは思っていたが、これほど酷いとは思わなかった。この道は今まで通行出来なかった国道の中では最低だ。先ほどまでの道路状況レベルとの落差があまりにもひどすぎる。長州閥などといっても、上手い汁が吸えなければ、庶民のことなどどうでもいいというのが本音なのであろうか。こじつけても腹が立つ。

やむなく戻って県道を豊浦町方面へ。維新の志士たちの保養所だった川棚温泉入口の看板を見ながらやがて響灘の海側へ出る。遠回りになるが仕方ない、あとはこのR191を行ける所まで行って、適当な所を見つけて泊ることにする。

北浦街道という響灘から日本海に向う海岸線を走るR191を通るのは初めてである。その昔この道を吉田松陰や高杉晋作、久坂玄瑞などという人たちが何度も往復したのであろうか。同じような景色の続く中を2時間近く走り続けて長門を過ぎると、湯免温泉というのがあった。ここでの車中泊はどうかと立寄る。町が運営しているらしい大型の入浴施設があり、車中泊も大丈夫な感じがしたが、邦子どのが今一乗り気でないので、パスして先に向かうことにした。まもなく萩市内である。久しぶりに明日は萩の街を歩いて見たいと思っている。郊外に道の駅があるのだが、海の傍らしいので泊るのは敬遠して、少し遠いけど福栄村にある道の駅に行くことにした。萩市内を横切って、真っ暗になった中、県道11号を直進して18時近く到着。何も見えないが、ここは国道ではないので、騒音に悩まされずに眠れそうだ。やれやれ。

コメント
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