山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

オガタマノ木を見に行く

2010-05-23 03:00:56 | くるま旅くらしの話

先月だったと思いますが、庭先に立つと何処かからほのかにバニラのような甘い香りが漂って来ました。どこかで嗅いだことのある香りです。花の香りのようです。それで付近を調べましたら、我が家の前の通りを挟んだ向こう側のIさんの玄関先からなのでした。行って見てみると、そこに1本の木が花を咲かせており、強い芳香はその花から発せられているのでした。う~ん、これは何という木だったかなと、思い出すのに少し時間がかかりました。これと同じ芳香を何年か前に小平(=東京都小平市)の薬用植物園で嗅いだことがあるのです。何という名前だったか、確かオガタマノ木ではなかったか、と思い出しました。それでネットで調べて見ますと、同じような花が掲載されており、芳香性も強いことが書かれていました。やっぱりオガタマノ木だったのだと確信しました。

オガタマノ木は、ネットによりますと、モクレン科の常緑樹で、モクレンの仲間では常緑樹はこの木だけなのだそうです。漢字では小賀玉木、黄心樹、招霊木などと書き、古来より榊などと同じように神前に供える木として用いられたと書かれていました。温暖な地方に自生する高木で、高さは20mにもなるということでした。

面白いのは、一説によれば古事記の天岩戸の項に書かれている、天照大神が天の岩屋戸にお隠れになった時、これを何とか外にお出まし頂こうと、たくさんの神々が集まって天の安の河原で知恵を絞った中で、天鈿女命(あめのうずめのみこと)が神がかりになり、桶の上で体を露(あらわ)にさせながら踊り狂って、思わず一同が笑いこけたところを、天照大神が何だろうと岩戸を開けて覗いたのを、待ち構えていた天手刀男命(あまのたじからおのみこと)が大力を発揮して岩戸を引き開いたという話の中で、天鈿女命(あめのうずめのみこと)が両手に持っていたのがこのオガタマノ木の枝だったということがあります。本当なのかどうかは判りませんが、招霊木と書かれるのも、その強い芳香性が、何か人間の気を引き寄せる力があると考えられたからなのかも知れません。とにかく甘く優しい香りなのですが、強烈ともいえるほどなのです。

で、この木のことを調べておりましたら、なんと茨城県のかすみがうら市に樹齢400年ほどになるこの木があるというのを知りました。かすみがうら市は、私の住いからは1時間程度で行ける距離にあります。花期は4月ごろですから、もう既に終ってしまっているので、花の香りは嗅げないとしても、葉の香りもかなりあるということですので、そこへ行けばオガタマノ木を実感できるのではないかと思いました。

場所を調べていましたら、その近くに宍倉という地名があり、ここには江戸時代の前までは宍倉城というお城があったということです。実は私の家内の旧姓は宍倉と言い、以前から茨城県に宍倉という地名の所があるというので、一度そこを訪ねてみたいと話していました。この地が聞いていた同じ場所なのかどうかは判りませんが、地図を見る限りではかなり広いエリアのようですので、もしかしたらルーツに係わる何かがあるのかもしれません。オガタマノ木のある素鵞(そが)神社は、その宍倉の少し先の場所なのです。こりゃあ好都合だということで、今日(5/22)早速そこを訪ねたと言う次第です。

かすみがうら市は、旧霞ヶ浦町、玉造町、千代田町が平成の大合併で一緒になってできた市ですが、宍倉城址も素鵞(そが)神社も旧霞ヶ浦町(元出島村地区)に属しています。今までこのエリアを訪ねたことも通過したこともありません。私にとっても家内にとってもこのエリアは、全く未知のゾーンなのでした。町の名前の通り、霞ヶ浦に面しているこのエリアは、恐らく海抜20mにも満たない平地が広がっている穀倉地帯だったのだと思います。

家を出て、つくば市を経由して国道6号線に出てから、土浦バイパスを通過して少し行くとJR常磐線の神立駅に向かう県道があり、右折してこの道を直進し、駅前近くの十字路をで左に曲がって踏み切りを通過し、道なりにしばらく走ると左手に小学校が見えてきました。これが宍倉小学校でした。家内は自分の旧姓と同じ名前の小学校名を見て、少しばかり感無量の顔をしていたようでした。城跡がどこなのか判らないので、とにかくその近くと目される神社やお寺を訪ねて見ることにしました。

少し行くと、神社があったので車を止めて参拝しました。鹿島神社というひと昔前の村社で、江戸時代の初め水戸光圀が再建に尽力し、ご神体を寄付したというようなことが、由緒書に書かれていました。何か宍倉城のことなどが記されていないかと見てみましたが、何も見出せませんでした。少し先に松翁山最勝寺と浄土宗のお寺があり、ここにも車を止めて参詣したのですが、お城に関する情報は見出せませんでした。家内は、近くに宍倉という姓の人が住んでおられないかを知りたかったようですが、訪ねようにも人影を全く見かけませんので、訊く術がありません。それにこのあたりの農家は皆豪農といった感じで、恐れ多くて屋敷の中に入って行きにくいのです。ま、後で電話帳などで調べてみようかなどと言いながら、お城のことは諦めてオガタマノ木の方へ行こうと出発しました。

ところが100mも走らない場所に、宍倉城址の案内板があるではありませんか。なあんだ、ということで、道脇に車を止めさせて頂いて、細い道を歩いて城址に向かうことにしました。150mほど先に本丸城址があり、2千坪ほどの敷地は今は畑となっていました。城郭全体はかなり広いものだったようです。説明書きによると、関が原の戦い後、佐竹氏が秋田に転封となり、この城の主だった佐竹氏の部下の菅谷氏も藩主と共に秋田に移ったため、廃城となったということです。本丸を取り囲んでいたらしい堀の跡は、竹藪となっており、400年前の面影を僅かに止めている感じがしました。

   

宍倉城址の景観。本丸は農耕地の畑となっていた。つわもの共が夢のあとという感じがした。

宍倉という地名と宍倉という姓とがどのように関連するのか、さっぱり解りませんが、全く無関係ということはないでしょうから、もしかしたら家内のご先祖様は、何らかの形でこの地と縁(ゆかり)があったのかもしれません。ま、これは家内の問題であって、馬の骨を自認する私としては、ご先祖が山の麓に埋もれた馬の骨のような存在であっても、一向に構わないのです。これから先のことは全て家内に一任です。ここまで案内させて頂いたことで、私の役割は済んだと思っています。

さて、いよいよ目的本命のオガタマノ木のある素鵞(そが)神社に向かうことにしました。再び車に乗って走ること15分、地図によれば豆腐屋さんの角を左に曲がれば神社だというイメージだったので、それを目印に行ったのですが、豆腐屋らしきカンバンも店も全くなく、そのまま通り過ぎてしまい、何か変だと、少し戻って神社を発見するという不手際でした。地図で強調されている豆腐屋さんは、カンバンを出して居らず、店も入口のガラス戸を閉めれば豆腐などどこにあるかという格好で、これはもう地元の人だけがとうの昔から知っているので、余計なものは一切不要という感じなのでした。それなのに、何故Yahooの地図にはこの店だけが取り上げられているのか、理解に苦しみました。

素鵞(そが)神社は、最近石造りの鳥居を新しくしたようで、小さいけどスッキリした形(なり)をしていました。鳥居を潜ると直ぐ先に階段があり、それを登ると拝殿があります。参拝の後、境内を見渡すと2本の大木があり、拝殿の近くにあるその内の一本が訪ねていたオガタマノ木でした。もう一本は階段の下にあって、ケヤキのようでした。オガタマノ木は幹周りが3mほど、樹高が20mくらいでしょうか、ガッシリとした樹容を誇っていました。樹齢400年といわれているようですが、まだまだ勢いは盛んで、花の咲き終わった新葉の辺りからは、ほのかな香りが漂っていました。花の盛りの頃には、境内一杯に芳香が満ち溢れていたに違いありません。我が家の向かいのIさんの木は、今年初めて花を咲かせたと思える若木ですが、この境内の大木は、何という貫禄なのだろうと、しばしその姿に見入った次第です。来年は花の時期に必ず会いに来るぞと思いました。

 

左はオガタマノ木の全容。右はオガタマノ木の幹の様子。かなりの大木だが、まだ十分に若さを感ずる木でもある。

ひょんなことから宍倉城址と素鵞(そが)神社のオガタマノ木を訪ねることになりましたが、このような日帰りのちょい旅もいいものだなと思った次第です。

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