山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

理想の墓

2013-08-02 09:43:37 | 旅のエッセー

 お墓の話である。墓というのは、己が死んだ後の存在の証の一つとして骨の一部を収めて残しておく場所である。と言ってしまえば、あまりにも即物的で味気ない。根がいい加減なので、墓のことは未だ深刻に考えたことがない。しかし、己が今や老計や死計を考えなければならない世代に入ってしまっているのだから、その計りごとの中に墓のことも入れておく必要があるのかもしれない。考えてみれば、そう、未だ自分の墓すらも用意していないのである。長男なのだけど、家を出てしまっているので、実家の墓に入ることはできない。墓は自分で作るしかない。しかし、未だ自分の墓をつくることには何となく抵抗がある。と、まあ、そのような状態なのである。

ところで、何で墓の話なのかといえば、これは旅の中で拾ったテーマなのだ。先日信州の霧ケ峰・美ヶ原高原に旅した時、いつもは諏訪湖の側から上って行くのだけど、今回は反対側の小諸・上田市側の方からのコースを辿った。上田市に隣接して長和町というのがある。ここは元の長門町と和田村が合併して出来た町であり、霧ケ峰や蓼科高原への基地的なロケーションにあり、諏訪側から上るよりもこちらからの道の方が車の負担が軽い感じがする。その元長門町には、道の駅:マルメロの駅ながとがあり、ここには温泉も併設されており、仮眠して一息入れるには格好の場所となっている。今回はこの道の駅に泊まり、そこから高原を目指したのだが、泊った翌日に町中を早朝散歩した時、ふと気づいたことがあった。それが墓のことなのである。

      

マルメロの実。この道の駅のある国道152号線の側道にはかなりの数のマルメロの木が植えられており、若い実を付けていた。柔らかな果実なのかと思っていたら、カリンにも負けないほどの固さの実だった。

道の駅の裏側(=西側)は山裾の森となっており、樹木に覆われた中に細い道がつくられているのだが、その道を歩いている時に、上の方が墓になっているのに気がついた。樹木に隠れているので、下の方からは気づかなかったのだけど、そこを歩くと、道に沿ってずっと幾つもの墓が続いているのである。珍しいなと思った。後で気づいたのだけど、この山裾一帯が墓地なのだった。そして、この辺では他のエリアにも山裾の樹木の中に墓がつくられているというのも判ったのだった。

     

道の駅裏の森の中に点在するお墓の数々。木立の緑に染まってご先祖様たちも安らかげに眠られているに違いないと思った。

普通に見るお墓といえば、お寺があって、その周囲に密集して何基もの墓がつくられている。それらの墓地の中には、樹木が植えられているものは少なく、ましてや全体が大樹で覆われているなどというのは殆どない。大規模霊園などには多くの樹木が計画的に植えられているけど、一般の墓地には樹木は少ないようだ。お墓というのは、亡くなった人たちの魂が休んでいる場所だと考えると、樹木なしの墓石ばかりの殺風景な環境には賛同できない気がする。

全国を旅していると、地域によっていろいろな墓のスタイルを見ることが出来る。総じて墓石ばかりの殺風景な墓が多いのに気がつく。特に北海道などでは、どうしてなの?と思うほど、樹木もなく殺風景で味気ない墓を見ることが多い。長く厳しい開拓の歴史の中で、墓にゆとりを持たせる余裕もなかったのかと、ご先祖様たちに何だか申しわけない気持ちを抱きながら傍を通過することが度々あった。

今まで豪華ですごいなと思ったのは、井波の墓である。井波というのは、富山県にある町で、今は合併して南砺市に属している。この町は江戸時代の加賀百万石のお抱え彫刻師の住んでいた町で、一種独特の雰囲気がある。今でも彫刻の町であることに変わりはない。この町にある道の駅には何度かお世話になっているのだけど、何年か前、早朝に付近を散歩している時に、靄(もや)のかかった遠くの丘の麓辺りに、墓石らしき墓標がたくさん立ち並ぶ一角を見て驚いたことがある。彫刻の里なので、何がしかの彫刻が刻まれた墓標のようなものが建っているのかと傍に行ってみたのだが、彫刻などはなく、立派な縦長の墓石だった。それらは、ほぼ同じ規模(2mを超える高さの)で建てられており、遠くから見るとそれらが並んでいるのが壮観といった感じなのである。ご先祖様や亡くなった人たちに対する思いの深さをその墓に見るような気がして心を打たれたのだった。

今回の長門町のようなお墓の作り方は、自分の記憶としては、茨城県では笠間市の西念寺の墓地がある。ここは稲田御坊と呼ばれ、浄土真宗の宗主親鸞上人が、かの「教行信証」を著した場所としても有名である。ここのお墓は裏手の山の中にあり、樹木の中に自然体につくられている。県北に育った自分にとっては、そのようなお墓は今まで見たことが無かったので、強く印象に残ったのだった。親鸞聖人さんがそのような墓の形式を指示されたのかどうかはわからないけど、良いお墓だなど思った。自分の父母の眠る墓も剥き出しのままに丘の外れにあり、一本あった楢の木も愚かな誰かが無断で切ってしまったという話を生前の両親から聞いたことがある。

今まで全国をそれなりに旅して来たのだけど、お墓といえば何といっても高野山のそれが印象的である。ここは弘法大師の真言宗の総本山だけど、そのお墓はやはり自然林の中にあって、宗派はおろか宗教の種類の如何を問わずに墓がつくられているのだった。歴史上の人物の墓も多く、お互いに対立し戦い合い、滅ぼし合った人の墓が隣接していたり、或いはキリスト教の人たちの墓があったりしているのを知って、驚かされたのだった。宗教の本来の目的が人間を救う、その生き方の力になることにあるとするなら、それらの迷い多い人間の亡きがらを収める墓は、人種や宗旨など問題ないというのが正道のように思えるのである。弘法大師がそう説かれたのかどうかは知るすべもないけど、高野山は魅力的な場所である。

さて、何がいいたのかといえば、自分にとって理想の墓はやっぱり樹木に囲まれてあって欲しいということだ。老計とか死計とか言い出しているこの頃であるから、それらの計りごとのちょっと先にある我が身の一部を収める場所に想いを馳せるとすれば、樹木、出来れば大樹があって、野草たちの四季の花が見られるような、そのような場所が良いなと思うのである。長和町の長門エリアの墓を見て、そのことを何だか急に強く思ったのだった。

(……、しかし、現実には守谷市付近には森は多いのだけど、樹木に覆われている墓地は少ないようで、お寺さんも新参者を受け入れてくれるかどうかはっきりしない。墓を自在に選べる身分ではなく、もしかしたら墓無し(=儚し)のままであの世に行くということになるのかもしれない。日本国が好きだから、全国各地に散骨して貰ってもいいなと思ったりもする。北海道なら3カ所くらい、別海町の牧場脇のトリカブトが咲いている場所とクッチャロ湖畔の夕焼けが一番映えて見える場所、それからもう一カ所は長沼町のマオイの丘辺りが良い。九州では太宰府天満宮の裏道の脇で良い。四国は高松市郊外の庵治の白砂青松の海岸が良いなと思う。本州は、やっぱり親の眠る墓地の周辺にばらまいて貰いたいと思う。あまり欲張ると骨が足りなくなってしまうかも。その時は、どこかから馬の骨でも拾って来て混ぜて貰いたいなどと思ったりしている。これはまあ、無理な話でありましょう。つまりは、なるようになるということでありましょう。理想などというものは、実現しないところに意義があるらしきは、薄々感じているところです。)   <7.28.2013記>

 

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