山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

ナビなし主義からの離脱

2013-08-06 04:01:41 | 旅のエッセー

  今時、時代遅れとは承知しながら、ずっとナビなし主義を守って来たのだが、そろそろそれを諦めなければならないと思うようになっている。

先日信州の高原に旅に出掛けたとき、予定を変更してどこか温泉を探して入ろうと思った際に、幾つか候補地を資料で探してそこへ行こうとしたのだが、持参した地図に載っていないため、途方にくれた。旅に出掛ける際は、予め目的地周辺の地図を用意し、詳細がわからない場合は、事前にネットで調べてメモなどを用意し、凡その見当をつけて出発という段取りをしている。しかし、旅先で急に変更を余儀なくされる場合などは、手持ちの地図では不明なケースが多く、結局はわかり易い場所へしか行かないということが多い。

 今回は、やむなく取り付けていた倅のお下がりの古いナビを使うことにした。そのナビに運よく目的の温泉が載っていたので、そのガイドに従えば何とかなるだろうと思った。しかし、途中とんでもないコースを選択され、ぐるぐる回りをさせられるなどして、大迷惑の遠回りをさせられて、ようやく目的地に着いたのだった。それでもとにかく目的地に着いたのだから、課題はナビの使い方にあるのか、或いはナビの性能にあるのかなと思った。何も載っていない地図よりは確かに便利ではある。これからは恐らく変更の多い旅となることが予想されるので、やっぱりナビなし主義のことはもう少し真面目に考え直さなければならないなと思った。

ナビを車に取り付けるのが流行り出したのはいつ頃からであろうか。いわゆる高度情報化社会という奴が本格化して間もない頃ではなかったか。今頃、高度情報化社会などと言ったら、「何それ?」と言われてしまうのだと思うのだが、今から30年くらい前はそのような言葉を使うのは、割りと先進的な知識や考えを持っていた人たちに限られていたと思う。ま、今でも多くの人たちは高度情報化社会などということばを知らないまま、携帯電話に操られ、TVやパソコンを当たり前のように使っているのだと思う。ナビも又高度情報化の一分野であり、今頃はどの車にも取り付けられている感じがする。車のみならず、スマホなどでは位置確認情報として当たり前のコンテンツの一つになっている。

このような様々な情報の入手・活用の利便性は、高齢者にとってはある意味では却って煩わしいというか、心穏やかならぬものがある。一言でいえば、突然「断絶」の時間が眼前に現出したという感じなのだ。例えば、携帯電話といえば、多くの高齢者は「モシモシ、ハイハイ」という相互連絡のコミュニケーション手段という捉え方しか出来ないのではないか。携帯電話で、ニュースを見たり、SNS機能で見ず知らずの人たちとの文字や画像でのコミュニケーションをとり合い、或いはTVを見たり、音楽を楽しむなどということが出来るなどと知っている人さえ少ないのではないか。70歳代ならば多少それらの機能を理解できても、80歳を超える世代ではよほどに興味関心を持っている人以外は、全滅ではないかと思うほどだ。

かつて「断絶の時代」ということばが流行ったことがある。これは30年ほど前に、アメリカの経営哲学者、P.F.ドラッカーが提唱した、間もなく到来すべき新しい時代の本質を突いたことばであり、高度情報化社会のもたらす特徴の底にある時代変革の特質を指摘したものだと理解している。「断絶」が新しい時代の特性というのならば、それ以前は何かといえば「継続」ということになる。あれから30年以上が過ぎて、今まさに「継続の時代」が薄れ行き、「断続の時代」が勢いを増して現出している感じがしている。ドラッカー博士の予言は現実となり、その現実は様々な問題・病理を抱えながら超スピードで膨らんでいる。

断絶の時代とは、デジタルの時代ということでもあろう。それまでのアナログにとって代わって、世の中のあらゆるものがデジタル的に生産されるようになっている。勿論その核となっているのは、コンピューターであろうけど、人の生き様や心の在り様までがデジタル化しつつあるように思えてならない。デジタルというのは、この世は点の集まりで成り立っているという考え方であり、線というものや面というものが最初から存在するという発想を否定する様な考え方でもある。線も面も立体も全ては点の集まり方の一特徴に過ぎないというのであろう。自分は学者ではないから、論理的に説明は出来ないけど、感覚的にはそのように思っている。人間と同じようなロボットをつくり出すというような発想もデジタルであって初めて可能となる。アナログならば、人間は初めから人間であって、ロボットは人間などではないと決まっているからである。

今の世は、デジタルの恵みを享受しているのだけど、その恵みを恵みとして受け止める倫理心のようなものが出来上がっていないようだ。人類の歴史の99%以上はアナログの、継続の時代だった。それがここに来てたった半世紀ほどで、デジタル化に転じて一国だけの問題ではなく、全世界の人類のあり様を変えようとしている。その断絶化のスピードにアナログの歴史がつくり上げて来た倫理や価値観といったものがついて行けない状況を呈している。混乱期なのかもしれない。このような時期では、眠っていた人間の悪性が芽を出し始めるようで、今まで考えられなかったデジタル犯罪が多出しているようである。ネット犯罪やオレオレ詐欺などその最たるものであろう。そしてそれらの犯罪は国境を無視して広がりつつあるようだ。

ちょっとオーバーになり過ぎた様である。タカがナビの話なのである。自分は、99%がアナログ人間なので、どうもデジタル化された機器を使うには抵抗があるのだ。ナビは確かに便利なのだが、地図を読む楽しさが不足している。単に目的達成為の便利ツールに過ぎない感じがする。地図は(発行した時点での情報範囲に止まるけど)、それを眺めていると様々な情報と一緒に未だ行ったことのない世界がそこに浮き上がって来る。ナビは刹那的で、功利的であり、全体像が浮かびにくい。

いろいろこのような愚痴めいたことを言っていたら、先に進めない。アナログ人間はアナログに徹するという様な美学はもはや存在出来ない様な時代となってしまっている。ナビでいえば、デジタル文明はこの世から地図という図書を駆逐し始めているようだ。書店の地図が次第に少なくなり出し、地図の解説書のようなものが流行り出している。詳しくはネットの情報でどうぞということなのか、早や大判の地図は本棚から消え去って、10年ほど前にその生命を終えた様である。宿命だったのであろう。そのように考えると、これからはアナログ感覚を失わないようにしながら、ナビやネットの情報を活用するしかあるまいと思ったのだった。残されている時間も少なくなっているのだから、目的地を探すタイムロスは少ない方が良いに決まっている。迷う楽しみよりも迷わない便利さを優先させることにしようかと、今思うようになっている。それにしても先日の旅では、ナビには散々振り回されて往生した。次回の旅までには、新しいナビを用意してみようかと思っている。 <7.29.2013 記>

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