山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

拓魂の人たち 

2023-01-24 10:42:02 | 宵宵妄話

                                                     

 先日(1/14)TⅤを見ていたら、NHKの「小さな旅」という番組で私の住む守谷市について「開拓の心一滴」というタイトルで、現在も守谷市内に残る牧場についての紹介がありました。自分が住む町がTVで紹介されるなんて滅多にないことなので、どのような内容なのかと興味深く視聴しました。

 守谷市は、茨城県では最も面積の小さな市で、TXが開通して以降完全に東京のベッドタウン化して、現在は人口が7万人を超えて、近隣のかつての県南・県西の中心地であった常総市(旧水海道市)や下妻市、龍ヶ崎市或いは筑西市(旧下館市)などよりも人口が多くなり、県内ではもっとも人口密度の高い市となっています。そのような市の中に現役の牧場があるというのを、もしかしたら市民の大半は気づいていないのではないかと思います。現代人は現住現地の現状だけに関心が大きくて(未来にも多少の関心はあるのでしょうが)、過去の歴史などについては関心が薄く、そのようなことなどどうでもいいと考える人が殆どではないかと思います。

 NHKの番組では、戦後満洲から引き揚げて来た山形県出身の人たちが中心となって、利根川と鬼怒川が合流する近くの場所(大木流作と呼ばれていた)に農地を求めて入植した人たちが、大変な苦労を重ね乗り越えて今日の牧場の基盤をつくり上げたのだという話でした。70年前の往時の農家を救ったのが牛乳の一滴だったという話などが紹介され、それらご先祖の意思を引き継いで現在も酪農に勤しむ何人かの方を紹介していました。

 限られた時間の中ではこのような少ない内容紹介で終わっても仕方ないと思いますが、実は私はこの地に引越してきてからしばらく経って、ここがどのような土地なのかを知ろうと調べたことがあるのです。私の住んでいる場所には「御所ケ丘」という名がついています。何の御所なのか調べますと、室町時代に関東の地を治める「関東管領が置かれたのですが、鎌倉に本拠があったのが二つに別れて、それが古河(茨城県古河市)に地を求めていわゆる古河公方と呼ばれるようになったのですが、二つに別れる際に場所をどこに決めるかの下調べをした時に、守谷市のこの地に管領の仮御座所を設けたのが地名の由来だということでした。

 守谷市は未だ町であった50年ほど前に、膨らむ東京のベッドタウン造成の候補地(常総ニュータウン)となり、それまで戦後入植して開拓に携わっていた人たちがつくり上げて来た北守谷地区の農地が選ばれることになり、それ以降公団による住宅の造成・建築が始まり、引き続いて民間の住宅建築も広がっていったという歴史があります。私が住んでいる場所もその昔は牧場であり、つい最近まで牧場を経営する人もいて、牛舎の臭いに悩まされていたのですが、現在はそれはなくなり、牧場が残っているのは、TVで紹介された利根川と鬼怒川に挟まれた地域だけとなっています。

 戦後、旧守谷町の既存農家が手を付けられなかった耕作条件の極端に悪い土地を国からの払い下げを受け開拓に携わったのは、大八州(おおやしま)開拓農業協同組合の人たちでした。この人たちは満洲での開拓、村づくりに携わった山形県出身の人たちを中心とする一団でした。満州での引き上げ開始時には200人を超えていたメンバーは、引き上げの途中に幾多の壮絶な苦難に見舞われ多くの仲間を失い、祖国にたどり着いた時は僅かに70名ほどだったということですから、帰国までには言語に尽くせない辛酸を嘗めたのだと思います。帰国してからもこの地に落ち着くまでには幾多の困苦を乗り越えて来たのでした。それを支えたのは、一致団結した力で農業で暮らしをつくり上げて行くという開拓の魂すなわち「拓魂」でした。これらのことは、大八州開拓農協がまとめた開拓の歴史の本に詳しく記されています。

 実は私も戦後国が全国各地に入植者を募集した開拓地の一つ、茨城県北部の(現常陸大宮市)開拓農民の出身であり、往時の開拓地の暮らしがどのようなものだったかを、子どもながらに身を以て経験しているのです。私の出身の開拓地は、樹木の株の残る荒地を畑の耕作地とするもので、30町歩足らずの土地に20数世帯が入植したという小さな開拓地でしたが、守谷市の場合はその何倍もある広大な土地なのでした。というのもこの地への入植者は満洲での開拓に当った農業の専門集団とも言える人たちで、あくまでもこれからも農業で暮らしを立てて行くという目的‣信念で入植の地を求めた人たちで、満州での経験を生かした取り組みの出来る人たちだったのです。

 私の出身の開拓地は、戦争で焼け出された関東一円の農業には全く素人の寄せ集めの人たちばかりでしたので、守谷のような農業集団としての実力を持たない貧しい開拓者だったのです。水田は無く1戸当たり1町歩程の畑だけの狭い土地では酪農など出来るはずもなく、結局は兼業農家とならざるを得なかったのです。私の父も途中から会社勤めとなり農業は母が担当する形となったのですが、集落の他の方たちも同じような暮らしぶりとなったのでした。

 守谷市の場合は全く違います。今回TVで取り上げられた地区のみならず、農協を核とした集団の力で、隣接する常総市や千葉県野田市にも農場を保有するまでに成長したのです。それを実現したのは、一致団結した拓魂の発揮によるものでした。個ではなく集団の力の発揮なのです。異国で鍛えられた拓魂の発揮は、全国でも注目される程のものだったのです。

しかし、50年前の団地造成に土地を失って以降は、その影響を受けて大八州開拓農協は後退せざるを得なかったのでは無いかと思います。戦後70年の間に大八州開拓農協の存在は、大都市圏という地勢の影響を蒙って激変したのです。往時の面影が残るのはTVで紹介された地域のみであり、その他の地域の大半は宅地やその他物流拠点などの大型倉庫となったりして、農業の繁栄からは遠くなってしまっている現状です。私はこの変化の流れについて、基本的に賛同できない立場なのですが、時代を動かす大きなうねりに巻き込まれてしまったのは、不可抗力で止めようのないものだったのだと敢えて理解することにしています。

今の時代、特に守谷市のような激変の都市化を経験している所では、農業は力を失い先細りの状態となっているようです。かつての大八州開拓農協のようなパワフルな集団の力が失せて、農協は農業との係わりを忘れてしまっているかのようです。このままでは現在先祖が建てたお寺のような豪壮な御殿に住んでいる既存の農家も遠からず音もなく消え去ってゆくのではないかと思うのです。それはまた守谷市のみならず日本国としての農業軽視政策の表れでもある感じがしてなりません。食料自給率が時々取り上げられて問題となりますが、食料の大半を海外に依存するという姿勢は、この度のロシヤの理不尽な侵攻がもたらしたウクライナに食料を依存する多くの国々の困惑ぶりを見ても非常なる危険を孕んでいることを示している感じがします。

守谷市の大八州開拓農協の集団としての力は、僅かに残った牧場エリアにしか残っていないようですが、かつての開拓農協の事務所あとには「偕に拓き共に築く」という拓魂に係わる団結の源泉となった言葉が刻まれた石碑が静かに建っています。そしてその脇には、この開拓に係わったリーダーの初代組合長の胸像が建てられています。私は時々これを拝見しながら、あの戦後の厳しい環境を、生命をかけて農業に取り組んだ人たちのことを想い、深い深い敬意を覚えずにはいられないのです。

NHKの番組を見ながら、開拓の心の輝きはあの程度の紹介の仕方では極めて不十分だなという思いを止めることが出来ず、これを書くことにしたのですが、残念ながら力不足をどうすることもできません。

 

大八洲開拓農業協同組合の旧事務所 今は誰もいない

開拓の精神を掲げた石碑「偕に拓き共に築く」と刻まれている。

初代組合長佐藤孝治氏の胸像。引き上げから帰国後の混乱の中でこのリーダーあればこその一団でもあった。

 

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