山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

明るい農村と農家の嫁と百姓を讃える

2013-03-08 06:37:26 | 旅のエッセー

  鹿児島県に「明るい農村」という焼酎がある。霧島町蒸留所というのが、その蔵元なのだが、そこではこの銘柄の他に「農家の嫁」「百姓百作」などいう銘柄の焼酎も作っている。これらの焼酎のキャッチフレーズがいい。実に気に入っている。「明るい農村」と「農家の嫁」については、次のように文句を謳っている。「良き焼酎は良き土から生まれる。良き土は明るい農村にあり。明るい農村は農家の嫁が作る。そして「百姓百作」については、「百の仕事をするから百姓。何でも作るから百作。創意工夫の世界 それが百姓百作です。とある。素晴らしいうたい文句であり、キャッチフレーズだと思う。

 時あたかも我が身は酒のラマダンの真っ最中の先日、ビッグニュースがこの醸造元からメールで送られてきた。なんと、「明るい農村」が、平成24年度の鹿児島県本格焼酎鑑評会(平成25年2月8日開催)で第一位となる「総裁賞代表受賞」に選ばれたとのことだった。鹿児島県の本格焼酎といえば、勿論断然に芋焼酎であるから、その第一位といえば、これは日本でも最高位といってもいいのではないか。つまり、芋焼酎日本一ということである。早速お祝いに何本か発注すべきなのだけど、いや、待てよ、今はラマダンの真っ最中ではないかと、妙にその目標達成意欲が我を発して、注文するのは先送りすることにした。この焼酎が鹿児島県ナンバーワンとなったのは嬉しい。実に嬉しい。

 この焼酎に何故こんなに入れ込むかといえば、勿論何といっても芋焼酎らしい美味・美香の焼酎だからである。それは当然として、その他に自分には二つの理由がある。その一は、昨年の九州の旅で、偶然にその醸造元の蔵に寄れたことであり、もう一つは少し専門的になるけど、この販売元のマーケティングの姿勢が自然体のワンツーワンスタイルに近づいているのを感ずるからである。それらのことについて触れてみたい。

 まず、昨年の春の九州行で偶然にも蔵元の霧島町蒸留所に立ち寄り、何本かを買い求めたことが何よりもぐっと親近感を増したのだった。それは全くの偶然だったのだけど、霧島神宮に参詣した後、県道60号線を下って鹿児島湾に向かっていると「明るい農村」という看板が目に入った。おっ!と思った。しかし発見が遅かったので通過してしまった。普通だとそのまま、まぁええか、と通過してしまうのだが、どうも気になって珍しく来た道を戻ることにした。

「明るい農村」というのは、知る人ぞ知る薩摩焼酎の名品なのである。今の住まいの守谷市内の普通の酒屋では見かけることはなく、何故か、大手ホームセンターの酒類売り場の隅にある、鍵のかかったプレミアム焼酎の置かれた棚の中に数本が納まっている(最近になって入庫が増えて棚の外にも並べられるようになったが)という存在なのだ。

この焼酎との出合いは、数年前のキャンピングカーのクラブキャンプで、どなたかが持参されたのを、ずいぶん妙な名前だなと思いながら飲んだのが初めてだった。少しバカにするような気持ちで、冷やかし半分に口に入れたのだったが、たちまちその姿勢を改め、正したのだった。その焼酎には、イモ焼酎独特の香り(においなどという人がいるけど、それは明らかに誤りである)があって、実にまろやかな味わいのある美酒なのだった。イモ焼酎の美味度が判るまでには、かなりの時間を要すると思うけど、あの香りを臭いなどと言っている人には、その美味さは永遠に解らない。お気の毒なことではある。

と、まあこのような経緯(いきさつ)があって、「明るい農村」という銘柄は我が心の中に定着していたのである。この名前に惹かれるのは、自分が茨城県の片田舎の開拓地農民の出身であり、農村とか百姓とかいうことばに大いなる愛着を覚えるからでもある。学生時代に、母が中心に営農していた我が家の農作業を手伝っていた頃(1960年前後辺り)、NHKで農村向けのラジオやTVなどの放送番組に「明るい農村」というようなのがあったように記憶しているけど、我が家のような兼業の小規模農業とは無縁の内容が多かったように思う。その頃は将来どんな仕事に就くか考えたこともなく、ただ母の労苦を少しでも楽に出来たらいいと、勉学の合間を縫って農作業に従事していたのだった。汗水たらして働くというのはこういうことなのかというのを、農作業を通して十二分に教えて貰ったのを思い出す。今でも農業が嫌いということはなく、リタイア後は一時畑づくりをするのもいいなと思ったことがある。結局、くるま旅くらしを見つけて、それは家庭菜園どまりとなり、一昨年の原発事故以来はその楽しみも不意となってしまっている。明るくても暗くても農村はこの国の原点だと思っている。

さて、話の続き。車を戻して明るい農村の看板の出ている霧島町蒸留所の駐車場に止め、そこの販売コーナーを覗くことになった。さして大きくもない販売所だったけど、店内には「明るい農村」初め何種類かの銘柄の焼酎が並べられていた。試飲もできそうだったけど、運転者には残念でも禁物。店内には若者世代の何人かの女性が店番の担当をされていた。霧島町蒸留所という名なので、町の経営なのかと思って訊いて見ると、そうではなく民間の株式会社とのこと。せっかく寄った記念にと、未だ一度も手に入れたことのなかった焼き芋を原料とした「農家の嫁」他の何本かをものにした。若者たちの応対はきちんとしていて、心地よかった。明るい農村の雰囲気が店の中に満ちているように感じた。親近感がいや増したのを覚えている。

その時はそれで直ぐにおさらばして次の目的地に向かったのだが、旅から戻ってしばらくして北海道の旅に出掛ける前に、彼の名品を何本か手に入れて持参しようと霧島蒸留所へメールで発注したのである。そこから先がこの焼酎に入れ込む第二の理由となる。その受注の報告のメールの内容が素晴らしかったのである。それで、益々この焼酎が気に入ってしまった。

自分の元の仕事に関係するので話は控えめにしたいのだが、自分は学生時代マーケティングを学び、就職後もその発想をベースにして仕事をしてきたという思いを持っている。就職先の企業は、直接的にはマーケティングというような考え方を意識して持たなくても事業が成り立ち易い業界だったので、社内で表立ってマーケティングの話を持ち出したことはなかったけど、自分の仕事に関してはコミュニケーションを基本としてのマーケティングの発想を重視して取り組んできたつもりでいる。

そのマーケティングも今の時代では、細かい手法などはかなり様変わりして来ているのだろうけど、その根本哲学というか、情報の送り手側と受け止め側のズレを最小限化するという考え方には、変わりはないと思っている。マーケティングをここで本気で論ずるつもりはないけど、マーケティングには二つの形があり、それはマスマーケティングとワンツーワンマーケティングに分けられる。マスマーケティングというのは、情報の送り手に対して受け手がマス(=大衆)のものであり、ワンツーワンマーケティングというのは、情報の送り手に対して受け手も一人(特定の個人)というスタイルを意味している。今の世の主流は依然としてマスマーケティングにあると考えられるけど、IT技術の進化したこれからの世の中では、ワンツーワンマーケティングがより重要性を高めることになってゆくと考えられる。つまり、不特定多数のお客様へのアピールというスタイルだけではなく、そこからもう一歩突っ込んで絞り込んだお客様や特定化したお客様への働きかけが重要となって来るということである。このような働きかけは、インターネットやメールなどの通信技術が発達したことによって、スピーディに且つタイムリーに情報の交換が可能となったのである。

このようなコミュニケーションツールの改革がなされて来ている現在、ワンツーワンマーケティングの実現の実態を見ると、自分の近くの様相としては、毎日何通かの販売情報等に関するメールが送られてくるけれども、それは宛名が自分のメールアドレスであるということだけであって、その内容は通り一遍のお仕着せの情報であり、マスマーケティングの手法から一歩も出ていない。そのような情報には、煩わしさしか感じないのが実態である。ネットで何か商品を発注した時でも、そこでのやり取りは同じようにありきたりなのである。

ところが、霧島蒸留所への発注の時の返信は違っていた。勿論受注のお礼などは丁寧に述べられていたけど、それだけではなく、そこには受注業務にかかわったご本人の客に対する思いのようなものが伝わってくることばが述べられていたのである。鹿児島県の霧島市近郊の様子を伝え、且つ関東の見たことも聞いたこともないであろう茨城県の片田舎へ寄せる思いのようなものが書かれていたのだった。まさにお客を「個」として扱い、自らも「個」の存在として商品を媒介しているという姿勢が、自然体の中で感じられたのだった。まるで、新しい人との出会いと同じような感動を覚えたのである。商品の取引に関して、このように直接向こうにいる「人」を感じたのは初めての経験だった。これこそがワンツーワンマーケティングの実践事例だなと思った。この霧島蒸留所の従業員全員が同じような応対をされているかどうかは判らないけど、その人(=Iさん)のように自然体でお客とのつながりを大切にしている人がおられる企業は、間違いなく確実に信頼と信用を増してゆくに違いない。ワンツーワンマーケティングが、単に商品の販売促進の技法などとして形だけの使われ方に止まることなく、コミュニケーションの送り手と受け手の心をつなぐ手段として生かされるようになることこそが、マーケティングの真髄というものであろう。

随分と長い話となってしまった。霧島蒸留所の回し者のようなことを書く結果となってしまったが、後悔はしていない。自分にとっての真実なのであるから。それにしても酒のラマダンの最中の吉報というのは、どういうことなのだろう。バッカス(=ローマ神話の酒神)さんが東洋のアホ者を揄(から)かって下さっているのかも。アルコールなしでも心はいつでもいい気分になれるという話でした。

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