山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

思考停止の季節

2013-03-10 23:05:30 | 宵宵妄話

 毎年、今頃になると思考停止の時期を迎えることになる。今年もそれがやって来た。花粉の季節である。目は潤んで視界が霞み、頭は重い痛さに膨れ上がり、鼻は詰まって涙を流し、喉はその壁にびっしりと埃を張り付けた様になる。薬を飲んで、辛うじて卒倒するのは避け得ても、思考は後ろへさえも戻ることもできず、止まったままとなる。花粉たちの怨念にがんじがらめにされて、いやはや、まさにどうにもならない。処置なしとはこのことである。

 今日(3/10)は、一歩も外へ出なかった。リビングのシャッターだけは上げたけど、その他の部屋のシャッターは全部締め切り、書斎と寝床とリビングを何往復するかに止めての暮らしだった。それでもベッドに仰向けに寝ていると、音もなく花粉が顔に積もるのが判るのである。枕元に濡れたタオルを置き、それで時々顔を拭うと、詰まった鼻が解放され、目元が明るくなるのは、花粉が取り除かれた証のように思える。

 今年の花粉は異常である。もし杉やヒノキたちが、生命の危険を感じとって、生き残るために全力を挙げて花を咲かせようとして、その粉を飛ばしているとしたら、この異常さは地球を只管(ひたすら)汚染し続けている人間という生きものへの精一杯の抵抗の証のような気もする。近年ますます異常化する花粉の飛散に加えて、今年は人間自らが作り出しているPM2.5と呼ばれる悪粉も混ざって、人間は天に向かって唾を吐き続けている様だ。もしかしたらその唾の中には原発事故で撒かれたセシウムも含まれているのかもしれない。

 明日は東日本大震災以降3年目を迎える日だ。昨日から現況についての様々なレポートなどが伝えられているけど、心底から安堵を覚えるような成果は挙がっておらず、被災地の方々も我々も依然として大きな不安の中に蠢(うごめ)いている。特に不安が膨らむのは原発事故に対する後処理と将来対応である。津波災害の復興については、その方法論に問題があったとしても、時間をかければ解決への道が開かれると考えられようが、原発事故に関しては、どんなに時間をかけても今の人類レベルでは人工的な解決法は見当たらない。

原子力のエネルギー利用については、人類はその負の部分を拭い去る技術を未だ保有してはおらず、ただその悪行を覆い隠し自然界に封じ込めるしか術(すべ)を持たないようだ。使用済核燃料の最終処理も、ただ地中深く埋めるだけというのであるから、それは技術と呼ぶもので無いのは明らかだ。今回の事故は、それら人類の原子力の平和利用なるものの限界を世界に向かって露呈していると言ってよい。原子力は自然や生きものを破滅させる能力だけが本能であり、それ以外はまやかしである。

それなのに、この国の政治はエネルギー政策から原子力を除外しようとはしていない。今回の事故の教訓は早くも忘れ去られ、現実の功利主義の世界の中に隠ぺいされようとしているかのようだ。そこに政治の限界があり、経済倫理の限界も覚えずにはいられない。こんな風に言うと、きれいごとでは世の中は成り立たないというセリフが聞こえてくるのがわかる。そして、それは現実論の中では常に力を持つ存在となっている。だけど、地上(=地球上)に人間の負の遺産が溢れだしている今、そのままの現実論を進めているだけで本当にいいのだろうか。ここまで来て、自分の思考は完全停止となっている。

花粉の季節は思考停止の季節でもある。花粉が降り積もるのを止めるまでは、しばらくブログも休まざるを得ない。明日は、それでも祈ることだけは止めるわけにはゆかない。

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