(続き)
話は変わるけど、この頃になって韓国の歴史ドラマを見るようになって、微(かす)かに古代の朝鮮の動向を知るようになった。ドラマを見ていると、朝鮮では檀紀という年号が使われていたらしい。それによると今年(=2013年)は檀紀4346年となるとのこと。日本でも戦前までは皇紀という年号が併用して使われていた様で、それによると今年は皇紀2673年となる。この暦を見比べると、日本は朝鮮よりも1673年も遅れて国家が成立したということになる。ことの真偽は問うのも愚かなことだが、どちらも故事に倣ってのものなのだろうけど、かなり大げさな気がする。この地球の生命体の始まりや、人間という生きものの世の始まりが何時だったかなど、誰にも判らない。判っているのは、国家などという集団が生まれ出したのは、せいぜい5千年にも足りない前に過ぎないということであろう。古さを競ったところで、大した意味はない。ま、それにしても、朝鮮の方が国家として先輩だったというのは、大陸との位置関係からしても、これは本当のことに違いない。
閑話休題。温故創生館を出た後は、鞠智城公園の古代の丘を散策する。何といっても目立つのは鼓楼の八角形三階建の建物である。これが歴史公園のシンボルタワーであることは疑いもなく、往時もとりわけて目立った存在だったのだと思う。先ずはその周辺を一回り歩くことにした。近くに復元された米蔵や倉庫(=武器などの収蔵庫)、それに防人たちの暮した兵舎などが建てられていた。米蔵や倉庫はいずれも高床式の建物で、米蔵は奈良の正倉院と同じあぜくら造りで復元されていた。
復元されて建っていた米蔵(左)と倉庫(右)。いずれの建物も高床式で作られていたようだ。左の米蔵は奈良正倉院と同じあぜくら造りとなっていたのは、米が貴重なものであり、保存に心を砕いたからなのであろうか。
最も興味があったのは、防人の人たちが住み暮らした兵舎なのだが、これはもう簡易長屋のようなものであり、往時の人たちの暮らしの厳しさを想わせた。冬ともなればこの地もかなりの寒さとなったに違いないけど、このような貧しい官舎での暮らしでは、生き延びるためだけでも相当の辛苦に耐えなければならなかったであろう。何しろ防人の人たちの食事は一汁一菜に時により塩が付加されるというだけのものだったとか。展示室にその食事の見本のようなものが示されていたが、ご飯に山菜のおかずと汁物だけなのである。日に三回の食事だったのかどうかは説明が無かったけど、今の時代こんなカロリー摂取では、とてもまともには戦えないのではないかと思った。防人の人たちは戦の訓練等の軍務だけではなく、食料の調達も自給自足だったということだから、農事などにも係わっていたのではないか。
左は復元された兵舎。間口27m弱、奥行き8mほどで、この中に50人ほどが共同生活をしていたとのこと。右は防人の食卓。一汁一菜が基本で、手に持つご飯の他は汁物と山菜の漬け物らしきものだけ。時には皿に僅かな塩が配られることがあったとか。飽食の現代人はこのご先祖の食事を肝に銘じる必要があるのではないか?
遠く故郷に妻子を置いて来ている人もあり、万葉集等に見られる防人の歌の数々には、その素朴な心情の吐露に胸を打たれるものがたくさんある。この暮らしの実態を知ると、そのインパクトはがいっそう強いものとなった。何首かが取り上げられ、紹介されていた。
*朝な朝な 上がるひばりに なりてしか 都に行きて はや帰り来む
*韓衣(からころも) 裾に取り付き 泣く子らを 置きて来ぬや 母なしにして
*わが妻は いたく恋ひらし 飲む水に影さへ見えし 世に忘られず
どの歌にも詠み人の厳しい現実の中での哀切な気持ちが素直に表現されている。その心情の深さを甚(いた)く感ぜずにはいられない。どんなに文明が進歩しても、今の世も、これから先の世も、戦(いくさ)などという人間の愚かな行為は、形を替えて果てしなく続いて行くものなのかも知れない。万葉の時代も今の時代も、人間という生きもの社会の宿命のような不変の部分が、ずっと引きずられて続いているような気がしてならない。千三百年前の昔、この地で国を守るために駆り出された防人の人たちの、それぞれの胸に様々な思いを抱きながらの厳しい暮らしぶりを想いながら、兵舎辺りをゆっくりと辿り巡ったのだった。
公園内には幾つもの史跡があるのだけど、起伏のある広大な施設なので、とても2~3時間で全部をじっくり廻り歩くのは無理であり、一応一番奥まった所にある灰塚という展望所まで歩くことにした。行ってみると、そこは鼓楼の上からよりももっと展望が効く様な場所だった。北は阿蘇や九重の山々なのだろうか、南は菊池平野というのか熊本平野というのかわからないけど、島原湾に面する熊本市の方に向かって平野が広がっているのが展望できる。まさに360度の景観だった。この地ならば、攻め寄せる敵も望見出来、かなり早くから即応体制を準備できるように思われ、何故ここが選ばれたのかが解るような気がした。ま、その後の我が国の歴史が、ここで敵を迎えることがなかったのは幸いだなと思った。
初めて訪れた鞠智城址だったが、我が国の古代史の一角に自分なりに小さな風穴を開けることが出来た様に感じた。大和朝廷がようやく国家としての基本体制を固めようとしていた頃の、時代の様相が僅かながらだけど、ここを訪れたことによって、自分の目にも垣間見られたのだった。この城が築かれてから後200年後には、廃城となってしまって今日に至っているとのことだったが、この城を訪ねるにあたって、一つ疑問を抱いたことがある。
それは、今市販されているどの地図にも、鞠智城址のことは全く記載されていなかったことである。ネットのグーグルの地図でさえも、鞠智城も公園も何の表示もなかった。歴史公園となっても表記がないのは、未だ一般的には認知されていないほど新しいものだからなのかもしれない。それにしてもこれほどの歴史遺産を無視してきた扱いには、文科省などの責任もかなりあるのではないかなどと思った。古い町や村の名がどんどん消え去り、わけのわからない町が生まれているのは、歴史の宿命なのかもしれないけど、時代の証明となる大事な施設や土地の名が、化石も残さぬかのように跡形もなく埋没して消え去ってゆくというのは、未来に対しての大きな罪を犯しているのではないか。そのような感慨も持ちながら、鞠智城址を後にしたのだった。生きている間に、もう一度訪ねなければならない場所だなと思っている。 (2012年 九州の旅から)
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