山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

五木の里はどこへ行く(誰が五木の里を壊したのか)

2013-01-25 06:14:09 | その他

  五木の里を訪ねたのは、人吉側からだった。人吉市から国道445号を行き、相良村を通過したその先が五木村である。自分の旅車では五家荘や椎葉や五木に行くのは道路が厳しいと聞いていたので、ためらっていたのだけど、人吉の民芸品作家の工房に寄った時に、人吉側からは五木までは立派な道が通っていると聞いて、是非行ってみようと思い立った。

五木村といえば、五木の子守歌の里である。この、何とも哀しい詞とメロディーを耳にすると、貧しかった昔の日本の、その中でもとりわけて貧しい田舎(山村)の人たちの暮らしのことが思い浮かんで、胸が締め付けられるような気持になる。子供の頃に、戦後の貧しさを存分に味わわせて貰った自分にとっては、恐らくそれよりもはるかに貧しい暮らしに明け暮れていた、遠い昔の山村のことが、この子守歌には悲痛なつぶやきとして伝わってくる。だから、どのような所なのかと、ずっと思い続けていたのだった。

 行って見た五木村の姿は、想いとは全くかけ離れたものだった。山の中腹を通っている道路に沿って現れた集落は、道の駅や温泉施設等が中心の立派な現代建築の建物ばかりで、子守歌から思い浮かべる景観とは全くかけ離れたものだった。何だか変だなと思った。駅の構内からは繰り返しあの哀愁の籠った子守歌のメロディーが繰り返し流れていて、それを耳にする度に切なさが膨らむのだけど、周辺の景観はマッチせず、どうも不自然なのである。

今夜は道の駅にお世話になるつもりで、周辺を少し歩いて見たのだが、ここはどうやらそう遠くない何年か前に、山の中腹を切り拓いて造られた集落のようだった。数百メートルもあるかと思われる遥か下方に、細く流れる川が見え、その上に巨大な橋が架けられつつあるのか、何やら大がかりな工事が進められているようだった。この景観から見ると、どうやら五木の里は元はあの下方の小さな平地にあったらしく、それが、ダムが造られる為にこの地へと移り住んだらしかった。何しろ初めての来訪だったので、村の事情など全く知らず、まさかあの子守歌の里が湖底に沈む運命にあったとは夢にも思わなかったのである。しばらく付近を歩き回っていると、道路の向こうの側の眺望のいい場所に、何やら記念碑のようなものがあるのに気づいた。近寄って見てみたら、未だ新しさの残るその碑には、次のような文語が刻まれていた。少し長いものなのだが、しっかり紹介したい。

 

     

五木村のダム湖建設の経緯を記した、悲痛な思いの籠められた記念碑。その内容は以下の通りである。 

       新たなるふる里をめざして  記念碑建立趣意

五木村は自らの意思にかかわりなく新しい一歩を踏み出す。下流域の災害防止と開発のためという「われわれの国」の発意と投資による大型ダムが、「われわれの村」の長い長い時間を昇華して、新しい歴史の一頁を開く。この碑に尽きせぬ祷りこめて。

昭和三十八年からの三年連続水害で球磨川水系は甚大な被害を蒙った。四十一年、国は下流域の防災と開発を主とした多目的ダム建設計画を発表し、即座に賛同した熊本県の説得に玩じ得なかった五木村は行政と議会を上げて絶対反対の態度をとるが、さまざまな苦渋と葛藤の末、止むを得ぬ  "生き残り"を選択する。昭和四十五年、国・県にダム建設に伴う五木村立村計画の基本的要求五十五項目を提示し、われわれ川辺川ダム対策同盟会は一般補償の交渉に挺身してきた。すなわち昭和五十一年五月初代山田親会長のもとに結集した三百五十三世帯による補償基準交渉と二代兼田豪会長下での一般補償基準妥結、さらには三代和田台四郎会長、四代木野一人会長による水没者の生活再建対策の具体化、そして五代照山哲榮会長のもとでの補償基準見直し調印と広範なる村再生事業の始動などであり、平成十二年から開始された頭地代替地への移転とつながる。

この二十七年間、われわれ川辺川ダム対策同盟会は、村の再生を希求し村びとの真摯な生活を守るため、生き抜き耐え抜いて今に至った。さらなる光明がこの地にさし昇ることを信じて、ここに記念の碑を建立し、五木の後世に語り伝えたいと思う。「いつきの心」を。

      平成十五年九月  川辺川ダム対策同盟会 会長 照山哲榮

 

これを読んで、この何とも言えないアンバランスな雰囲気の原因が何だったのかが氷解した。下流域に住む人たちのための防災目的等の多目的ダム建設を巡って、この地の人たちは四半世紀以上にわたる反対闘争を続け、その結果涙をのんで国側の要求を受け入れ、この代替地へと移り住んだのである。新しい立派な家が多い理由が解った。しかし、そこには新築の家に住む喜びよりも、村の暮らしを失った悲しみのようなものが、より多く漂っている気がした。闘争に直接係わった353世帯の人々が、五木村のどれほどの人口割合を占めていたのかは知らないけど、この山の中のエリアでの353世帯といえば、村の主力集落であったに違いない。この記念碑を読むと、ここへの移転に至るまでの怨念の籠った無念さが伝わってくる。それは先祖代々の住処を追われた人たちだけではなく、貧しいけれども穏やかで平和な暮らしをを根本から覆されたこの村の、後世に向かっての血を吐く叫びのように聞こえたのだった。

 散策から戻って一休みの後、道の駅の近くにある温泉施設に出向いた。歩いて5分ほどのその施設は、代替地の端の方にあって直ぐ下は崖のようになっていた。その分眺望がよく、露天風呂から立ち上がると眼下に湖底に沈むことになる昔の集落も展望できた。温泉はどこからお湯を汲み上げているのかわからないけど、もしかしたら、あの湖底となる予定の地下辺りから汲み上げられているのかもしれない。天然温泉の柔らかないい湯だった。それほど大きなものではないけど、旅の疲れを癒すにはありがたい施設だった。入浴する人も少なく、自分の他には2名ほどの人が出入りしただけだった。

湖底に沈むという五木の里のことを想いながら入浴を終えて戻ろうとすると、先に出たらしい家内が、温泉に勤めているらしき人と何やら話をしているので、傍に行って一緒に話を聞くことにした。すると、驚いた話題だった。何と、今になって村が湖底に沈むという話が無くなったのだという。今度の政府の仕訳とかいう見直しで、このダムの必要性が問題となり、結果として不要との結論が出たとか。いやあ、驚いた―。この地の人たちの四半世紀に亘る怒りと悲しみの綯い交ざった苦悩の時間は、一体何だったのかと、初めて来訪した自分たちにも何とも解せない話を聞かされたのだった。話をされている方も大いなる戸惑いの中に居られるようで、今頃になってダムの建設が中止となっても嬉しいという気持など微塵もないという感じだった。それはそうだろう、複雑さを通り越して、国政に対する新たな怒りが湧きあがるのを止めようがないに違いない。

聴けば、今工事中の架橋も、ダム建設中止の代わりにこれだけは必ず実現させるという国交大臣の約束なのだそうだ。国策の変更とはいえ、本当にこれでいいのか、村人の心を蹂躙しても、国全体から見れば大したことはないという決めつけ方で、本当に良いのだろうかと思った。先ほどの記念碑は一体どうなるのだろうかとも思った。多数決の正義のもろ刃の剣の怖さをまざまざと見せつけられた感じがした。

その夜は満天の星が煌めいていた。東北の方から来られたという一人くるま旅の方と二人、身が寒さにかじかみそうになるほど遅くまで、くるま旅のあれこれについて語り合った。お互い名乗りもせず、名前も知らない。それでも旅の者同士の心は通い合い、それだけでもう十分なのである。話をしている間も、自分の心の中ではあの哀しい子守歌が囁き、流れ続けていた。この先、五木の里はどうなってしまうのだろう。どこへ行ってしまうのだろう。子守歌だけが悲しみを伝える唯一の手だてとして村里の存在を歌い続けるのだろうか。それを知っているのは、満天の星だけなのだろうか。現(うつ)し世の人々の営みは実(げ)に不可解である。  (2012年 九州の旅より)

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